江戸時代(1603〜1868年)、人々の間では裕福な人々にだけ現れる奇妙な病が噂されていました。贅沢な暮らしを送る者に取りつく「呪い」とも言われたこの病は、「江戸患い」と呼ばれていましたが、その正体とは何だったのでしょうか。
江戸患いとは?
「江戸患い」とは、江戸時代における脚気、すなわちビタミンB1の深刻な欠乏によって起こる病の俗称です。この病は江戸で広まり、特に精白した白米を常食としていた裕福な人々に多く見られたため、「贅沢病」とも呼ばれました。
名医・香月牛山の医書『牛山活套』には、18世紀後半の江戸で発生した謎の病について記されています。役人や裕福な商人が、手足のだるさやむくみ、食欲不振に始まり、やがて呼吸困難や心臓の衰弱を経て命を落とすといった症状に苦しんだとされます。不思議なことに、箱根の山を越えて江戸を離れると回復することが多かったと記録されています。
19世紀に入ると、この病は江戸全体に広がりました。当時の医師たちは漢方薬や灸治療を施し、原因を土地や水、湿度にあると考えていました。そのため患者は地方へ移されて療養することが一般的でした。
しかし、この病が主に裕福層にのみ発生し、貧しい人々にはほとんど見られなかったことから、人々の間では「富への呪い」といった噂も広まりました。
1877年には皇室にも影響が及び、和宮親子内親王が31歳でこの病により亡くなったとされています。また、第14代将軍・徳川家茂も同様の原因で亡くなったと考えられています。
明治維新以降、この病は軍隊にも広がり、1883年には日本の水兵1000人中120人が発症、1904年の日露戦争では約2万7000人の兵士が命を落としました。この時点でようやく原因の解明が進みました。
白米という贅沢が生んだ病
古来、日本では白米は身分の象徴であり、裕福な人だけが食べられる贅沢品でした。一方、庶民は玄米やサツマイモ、大麦などを主食としていました。
白米は精米によって外側のぬか層が取り除かれており、美しく光沢のある「銀シャリ」として高く評価されていました。しかし、その過程でビタミンB1がほとんど失われてしまいます。
明治時代になると白米は軍隊にも導入され、兵士たちは大量の白米を食べる一方で、おかずが少ない食生活を送っていました。白米150g当たりのビタミンB1は0.03mgしかないのに対し、玄米では0.24mg含まれています。
1884年、海軍軍医の高木兼寛は、肉や野菜を含む多様な食事を取る人々には脚気が少ないことを発見し、食事改善によって症状が改善することを確認しました。
その後1897年、オランダの医師クリスティアーン・エイクマンが、白米を食べた鶏に脚気のような症状が現れ、玄米に戻すと回復することを発見しました。
最終的に、江戸患いの原因は白米中心の偏った食生活によるビタミンB1不足であることが明らかになりました。皮肉にも、富の象徴であった白米が多くの命を奪っていたのです。
1910年、鈴木梅太郎は米ぬかからオリザニン(現在のビタミンB1)を抽出し、脚気治療薬として用いました。これは世界で初めて発見されたビタミンであり、日本の栄養学の発展に大きく貢献しました。
1914年には、北里柴三郎の弟子である佐伯矩が栄養研究所を設立し、食事の栄養価向上に取り組みました。彼は玄米と白米の長所と短所を踏まえ、ぬかを30%残した七分づき米を推奨しました。
1930年代には、七分づき米と胚芽米のどちらを標準とするかで議論(胚芽米論争)が起こり、最終的に1939年の精米規制法では七分づき米が採用されました。佐伯矩は後に「日本栄養学の父」と呼ばれるようになります。