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Détails du Mot

佚

[いつ]
楽をすること。
<i>~を以(モツ)て労を待つ</i>
〔孫子(軍争)〕
味方の鋭気を十分養っておいて, 疲れた敵兵にあたらせる。

Mots Associés

佚書

散逸した書物。 名前だけ, あるいは本文の一部分しか伝わっていない本。 散逸書。

淫佚

(1)男女関係のみだらな・こと(さま)。 「~な関係」 (2)遊興にふける・こと(さま)。 「放奢~とまで至らざるも/福翁百話(諭吉)」

佚山

佚山(いつざん、男性、元禄15年(1702年) – 安永7年2月24日(1778年))は、江戸時代中期に活躍した曹洞宗の僧侶、書家・篆刻家・絵師である。今体派の篆刻の一派である初期浪華派に数えられる。印籍を多く刊行した。 森本氏。名は時敏、字は脩来(修来)、号は正蔵、常足道人。元文3年(1738年

佚存書

は、その国に異書甚だ富み」と記している。これらのことから、中国における、佚存書意識の萌芽は10世紀前後にさかのぼることができる。 北宋では奝然が太宗に『孝経』鄭注と『越王孝経新義』を献呈し、また欧陽脩が「日本刀歌」で「逸書百篇今尚存」と歌ったことで、日本に古書が残ることが有名になった。

佚存叢書

『佚存叢書』(いっそんそうしょ)は、林述斎による漢籍叢書で、中国で失われたが、日本に残る漢籍(佚存書)16種60冊を収録している。 日本で寛政11年(1799年)から文化7年(1810年)にかけて活字出版された。林述斎による各書物の解題が附属している。 題は欧陽脩「日本刀歌」の句「佚書百篇今尚存」に由来する。

字林

824字を収め、『説文解字』と同じ540部首を設ける。親字も『説文解字』と同じく小篆であったとされる。佚書であるため、現在は他書に引用された佚文のみが残る。 作者の呂忱は任城国任城県の人で、弟の呂静(りょせい)は韻書『韻集』(現存しない)の作者として知られる。

李徳裕

堂草木疏記之』を書き、また、彼の没後との庭園が人手に渡ることをおそれて『平泉山居戒子孫記』を書き残した。 『次柳氏旧聞』1巻 『西南備辺録』13巻(佚) 『会昌一品集』20巻 特に『会昌一品集』は、李徳裕が宰相として手腕をふるった6年間に書いた制・詔・上奏文などをまとめたものである。ここには彼が処

江表伝

呉の歴史書である。『旧唐書』「経籍志」に「江表伝五巻、虞溥撰」とある。早く散逸したため、清の王仁俊が輯本(ただし1条を載せるのみ)を編し『玉函山房輯佚書補編』に収載されている。 成立年代は明らかでないが、作者の虞溥は洛陽において死去したとの史書の記載があるため、虞溥の没年は永嘉の乱の洛陽失陥の永嘉

七略

『七略』(しちりゃく)は、中国前漢の劉向・劉歆父子により編纂された、朝廷の蔵書目録。 『七略』自体は散佚して現存しないが、『漢書』芸文志の基礎部分として残っている。あるいは類書などに引用されて佚文が残っている。 初め、劉向は成帝時期の宮中の蔵書(「秘書」)を校閲し

宝林伝

、大蔵経に入蔵されたことによって、急速に存在の意義を失ってしまい、やがて散佚することとなってしまった。 現行本は、山西省趙城県で発見された金蔵所収本(巻1 - 巻5, 巻8)、京都の青蓮院蔵本(巻6)の合本である。 また、佚書ではあるが、唐末の南嶽惟勁によって、『続宝林伝』が編纂されたことが知られる。

旧高旧領取調帳

雲国・石見国・隠岐国の7か国分、丹波国氷上郡・多紀郡の2郡分が散佚していた。ただし、昭和初期頃に作成された蘆田本をさらに筆写した二次写本が東京大学図書館に所蔵されており(「東大本」。これをマイクロ複写したものが「雄松堂本」)、蘆田本の散佚分のうち出羽・豊前・豊後の3か国分についてはこの二次写本で補うことができる。

尚書大伝

されていない。現在見られるのは輯佚本だけで、皮錫瑞が作成したものが最良である。 『尚書大伝』は旧題では前漢の伏勝(伏生)の著作とされ、一般には彼の学生である張生と欧陽生(中国語版)が彼の学説に沿って作成したものであるとさ

新論 (桓譚)

佚書が存在する。後漢の学者の合理思想を示す書物として知られる。 『後漢書』桓譚列伝によると、後漢のはじめに桓譚が当時の物事を論じた著書である『新論』29篇を光武帝に進上した。しかし琴道篇は未完成であったので、後に章帝が班固に命じて補足させた。

国家について

対話篇の登場人物を過去の人物にするのはプラトンの対話篇に倣ったものであるのに対し、現代の自分たちにするのはアリストテレスの散佚した対話篇に倣ったもの、と推測される。 前129年ラテン人の祭日(英語版)に、小スキピオ邸の庭園で、スキピオ・サークル(英語版)に属する以下の9人がおこなった対話を描く。

吉記

の唐名・戸部から『吉戸記』(きっこき)と呼ばれることもある。 仁安元年(1166年)から建久4年(1193年)まで28年分が記録されていたというが、原本は現存せず、写本(ほとんどは子孫の甘露寺親長の蒐集した書写)や他の書に引用された佚文を合わせても、断続的に13年分が残るのみとなっている。「日記の

述異記 (祖冲之)

『述異記』(じゅついき)は、中国の南朝斉の祖沖之が撰したとされる志怪小説集。10巻あったとされるが原本は散佚している。 『述異記』10巻の撰者は、『隋書』「経籍志」や『旧唐書』「経籍志」および『新唐書』「芸文志」では 祖沖之としている。宋代以降は祖沖之撰『述異記』の記載が見られなくなり、任昉撰『述異

秋尾園

– 新六の次男。戦時中陸軍工兵大尉として航空写真に従事し。シベリア抑留、自衛隊勤務を経て、事業を始めるも失敗し、1956年(昭和31年)家蔵品を散佚させた。 ^ a b c d e f g h i j k 金子 2007, pp. 370–373. ^ a b c d e f g h i j k l

アブー・イーサー・ムハンマド・ティルミズィー

まり泣きすぎたからと言われている。あるいは、ブハーリーの死を知って泣きすぎたからとも言われている。 ティルミズィーは9つの著作を書いたが、現代まで散佚せず残ったものはそのうちの4つである。『集成』(Jami` at-Tirmidhi)の書名でよく知られる作品は、スンナ派六大伝承書の一書に数えられる、ハディース学において重要な著作である。

季孫行父

^ 『春秋左氏伝』「成公四年」伝:秋,公至自晋,欲求成于楚,而叛晋。季文子曰:不可,晋雖無道,未可叛也,國大臣睦,而邇於我,諸侯聽焉,未可以貳。史佚之志有之曰:非我族類,其心必異。楚雖大,非吾族也,其肯字我乎。公乃止。 ^ 『春秋左氏伝』「成公六年」経:冬,季孫行父如晋。 ^