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敦明親王

冠り物がなく髻が露わになっていた父帝に対して自らの髻を気にせず烏帽子を譲った(その後、敦明は誰かの烏帽子を徴して被った)逸話があることや、源政職への辱めも妹が債権の返済がなされず困っていたことから、債務者を懲らしめたものである、として親兄弟には深い愛情を持っていたとされる。

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敦実親王

肌身離さず持っていた。 和歌・管弦・蹴鞠など諸芸に通じた才人であったが、とりわけ音曲に優れ源家音曲の祖とされる。藤原忠房が作曲した舞楽曲の胡蝶や延喜楽に振り付けを加えるなど、日本の音楽史上重要な人物である。勅撰歌人として、『後撰和歌集』に和歌作品が1首採録されている。 父:宇多天皇

敦慶親王

仁和寺に法会を設けて宇多法皇五十の賀を催した。延喜18年(918年)の六条院への行幸では笛を吹き、翌延喜19年(919年)甥の代明親王の元服において絃歌を奉じている。 延長2年(924年)ごろ中務卿から式部卿に転じ、延長3年(925年)には大学別当を兼ねた。位階は二品に至る。

敦道親王

外祖父の兼家に、兄である三条天皇に次いで寵愛された。正暦4年(993年)に元服し、加冠を左大臣源雅信、理髪を參議藤原公任が務める、のちに帥宮(そちのみや)と称された。最初の妃は関白・藤原道隆の三女であったが、道隆の死後に離婚した。

敦康親王

ISBN 4-642-05229-1 P192-193)。 ^ 藤原公任は「帥宮(敦康親王)才智太朗(ハナハダアキラカ)、尤足感歎、足感歎」と言い(『小右記』長和2年9月23日条、西暦1013年で親王は満13歳)。同じく『小右記』寛仁2年12月26日条によれば、敦康親王の喪中に明年

敦貞親王

万寿元年(1024年)高陽院競馬の左方の念人(勝負事に際して競技者の応援や世話をする役)となったが、関白・藤原頼通が聞いたことがない親王であるとして、念人の中から敦貞親王を除こうとする。大外記・清原頼隆が三条院の親王(実は敦明親王の子)であると述べるも、童親王であることを理由に頼通は念人

敦子内親王

敦子内親王(あつこ/とんしないしんのう)は、清和天皇の第3または第5皇女。母は女御・藤原高子(贈太政大臣藤原長良の娘)。陽成天皇、貞保親王の同母姉妹。賀茂斎院。 貞観15年(873年)4月21日、内親王宣下。貞観19年(877年)2月17日、兄・陽成天皇の即位に伴い、伊勢斎宮・識子内親王と同時に斎院に卜定される。元慶4年(880年)4

重明親王

日輪が家に入り金鳳が飛来する夢を見て、将来帝位に関わる兆しかと期したという伝説がある(親王の邸宅は後に藤原兼家に伝領された東三条殿) 。 ある時、蕃客(渤海の使者)が参入した時、親王が鴨毛の車に黒貂の皮衣を八重重ねで纏っていたので使者たちが大いに恥じたと言われ、風雅を愛する一方で豪気な一面も持ち合わせていたらしい(『江家次第』)。

兼明親王

う。これに憤慨した兼明親王は、後に『本朝文粋』に収録された漢詩「菟裘賦(ときゅうふ)」の中で、「君昏くして臣諛ふ」と円融天皇や兼通・頼忠を痛烈に非難している。 寛和2年(986年)中務卿を辞し、その後は嵯峨に隠棲した。同年に嵯峨野の亀山に山荘(雄倉殿)造営の際清泉が無いのを嘆き、亀山の神に祈って霊

保明親王

妃:藤原仁善子(本院御息所)(?-946) - 藤原時平の娘(一説に藤原定方の娘?) 王子:慶頼王(921-925) 王女:煕子女王(?-950) - 朱雀天皇女御 妃:藤原貴子(中将御息所)(904-962) - 藤原忠平の長女 妃:参議藤原玄上の娘 - 後に藤原敦忠、藤原文範と再婚 表示 編集 表示 編集

代明親王

藤原伊尹室、花山天皇外祖母、准三宮 女子:荘子女王(930-1008) - 村上天皇女御(具平親王母) 三女:厳子女王 - 藤原頼忠室(藤原公任ほか母) 生母不詳の子女 男子:源遠光 ^ a b c 『日本紀略』 ^ 『本朝皇胤紹運録』 ^ 『日本紀略』承平6年3月18日条 ^ 『大和物語』第九十四段 ^ 『貞信公記』 ^ 『御産部類記』1-11

久明親王

久明親王(ひさあきしんのう/ひさあきらしんのう)は、鎌倉幕府第8代征夷大将軍。 第89代後深草天皇の第六皇子。正応2年(1289年)9月、従兄の前将軍・惟康親王が京に送還されたことにともない、征夷大将軍に就任した。当時の皇室は2年前に久明の兄にあたる伏見天皇が即位、さらに2年後には甥の胤仁親王

式明親王

康保3年(966年)12月17日:薨去(中務卿三品) 注記のないものは『本朝皇胤紹運録』による。 父:醍醐天皇 母:源和子(光孝天皇の皇女) 妻:藤原玄上の娘 長男:源親頼 生母不詳の子女 次男:親繁王 ^ a b 『扶桑略記』天徳5年5月10日条。『古事談』4,勇士 ^ a b 『慶延記』 ^ a b c 『九暦』 宮崎康充編『国司補任

克明親王

克明親王(よしあきら/かつあきら しんのう)は、平安時代前期の皇族。初名は将順(まさのぶ)。醍醐天皇の第一皇子。官位は三品・兵部卿。 延喜4年(904年)親王宣下。延喜9年(909年)8月に父・醍醐天皇に対面する。延喜10年(910年)正月には清涼殿東庭において拝儛をしているのが見える。延喜11年(

有明親王

女子:能子女王(?-994) - 藤原兼通室(別名は昭子ともいわれ、元平親王(陽成天皇の皇子)の娘とする説もある) 女子:馨子女王 女子:藤原公季室 ^ 『御遊抄』延喜21年11月24日条 ^ a b c d 『日本紀略』 ^ 『母后代々御賀記』 ^ a b 『九暦』 ^ 『大嘗会御禊部類記』 ^ 『国司補任』

王敦

王導と共に東晋を建国した。武力に優れ、人望があり、機略に富んでいたとされる。また、書家の王羲之は従甥にあたる。父は王基。兄は王含。甥(王含の子)は王瑜と後に養子になる王応ら。妻は司馬炎の娘の襄城公主。 すっきりとした顔立ちで、変わった目をしていた。学問は『春秋左氏伝』に通暁していて、財産のことは口

明日香親王

になったという。弘仁12年(821年)三品に叙せられる。 天長8年(831年)上野太守に任ぜられる。承和元年(834年)2月13日薨去。 生まれつき質朴な性格で、浮華を良しとしなかった。弘仁年間は奢侈な風潮で、王公貴人は鮮やかな衣服を非常に好んだが、明日香親王だけは夏になっても朝服を何度も洗濯して使

伏見宮貞敦親王

第四王子:任助法親王(1525-1584) - 仁和寺門跡 第一王女:位子女王(1529-1616) - 二条晴良室 第五王子:応胤入道親王(1531-1598) - 梶井円融房、天台座主、のち還俗 生母未詳 第二王女:恵彭女王 - 安禅寺 第三王女:尊智女王(?-1602) - 中宮寺住持 第四王女:周恭女王 - 総持院 四親王家御系譜

親王

(1)天皇の子供を敬っていう語。 皇子・皇女。 (2)(父である神に対して)キリストを敬っていう語。 「神の~」「救いの~」 (3)親王。 親王宣下を受けた天皇の皇子。 「仁和のみかど, ~におましましける時に/古今(春上)」 (4)他人を敬ってその子をいう語。 「主を殺さぬ事, ~の君ぞしらせ給へる/読本・春雨(捨石丸)」

親王

〔「しんおう」の連声〕 皇族男子の身位の一。 律令制では, 天皇の兄弟・皇子をいったが, 淳仁天皇(在位 758-764)以後は親王宣下のあったもののみに限られた。 旧皇室典範では, 皇子から皇玄孫にわたる皇族男子をいった。 現制度では, 嫡出の皇男子および嫡男系嫡出の皇孫の男子をいう。 ⇔ 内親王