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奥州

[おうしゅう]
陸奥(ムツ)国の別名。

Kata Terkait

奥州市

市水沢工業団地」とした。 水沢区 - 旧水沢市地域 江刺区 - 旧江刺市地域 前沢区 - 旧前沢町地域 胆沢区 - 旧胆沢町地域 衣川区 - 旧衣川村地域 県南地域を管轄とする国や県の行政機関が置かれる場合が多い。 県南広域振興局 管轄市町:奥州市、一関市、花巻市、北上市、遠野市、金ケ崎町、平泉町、西和賀町

奥州スマートインターチェンジ

市道附野下笹森線(上り線) 岩手県道236号衣川水沢線(下り線) 2013年(平成25年)6月11日 : 連結許可。 2016年(平成28年)9月17日 : 着工。 2018年(平成30年)4月21日 : 供用開始。 岩手県立水沢農業高等学校 岩手県立胆沢病院 国立天文台水沢VLBI観測所 小山製麺 E4 東北自動車道

奥州仕置

領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。 豊臣秀吉による奥羽両国の無事(和平・和睦)への関与は、天正13年(1585年)の金山宗洗の奥羽への派遣から開始された。宗洗は天正16年(1588年)までに3度奥羽へ赴き、奥羽各領主と交渉を行った。天正16年9月、最上義光に続いて伊達政宗も秀吉に恭順を示し

奥州合戦

められたが、平治の乱で一日も支えられず零落し、数万騎の主であったが、長田忠致に誅されました。今と昔で優劣があるでしょうか。泰衡は僅か両国の勇士を率い、数十日も頼朝殿を悩ませました。不覚とたやすくは判断できないでしょう」と答えた。頼朝は答えを返さず対面を終えると、畠山重忠に維平を預け、芳情の施しを命じ

奥州管領

観応2年(1351年)、前年尊氏派と直義派の武力衝突で勃発した観応の擾乱が奥州まで飛火し、吉良貞家は畠山国氏が篭る岩切城を攻め、敗れた国氏とその父高国・弟直泰は自害したが、国氏の子二本松国詮は二本松に移り奥州管領として執務をしている。その子孫はそのまま二本松に土着した(二本松氏)。

奥州街道

五街道としての奥州街道は正式には奥州道中といい、厳密には江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白沢宿から白河宿までの10宿の道筋を指した。白河以北の17宿は幕府勘定奉行の管轄であり、賃銭などの統制のほかは、海道沿線の領主や旗本の管理に任されていた。白河以南・以北を合わせ、本項の扱う奥州街道は道中に27の宿場が置かれた。江戸時代には江

奥州市コミュニティバス

不可となっている(詳細はバスカードの記事を参照)。 岩手県交通所有の小型車両で運行。当初はZバス専用塗装の車両が主であったが、車両代替に伴い岩手県交通塗装の車両(路線・貸切両方の塗装車が存在する)を使用する。 [脚注の使い方] ^ a b Zバス時刻表  奥州市。PDFファイル 2023年10月25日閲覧

奥州探題

黒嶋敏「奥州探題考」『中世の権力と列島』(高志書院、2012年) ISBN 978-4-86215-113-1) P41-45. ^ 黒嶋敏「はるかなる伊達晴宗-同時代史料と近世家譜の懸隔」(初出:『青山史学』第20号(2002年)/所収:遠藤ゆり子 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二五巻 戦国大名伊達氏』(戎光祥出版、2019年)

奥州エフエム放送

奥州エフエム放送株式会社(おうしゅうエフエムほうそう)は、岩手県奥州市および胆沢郡金ケ崎町の各地域を放送区域として超短波放送(FM放送)をする特定地上基幹放送事業者である。奥州エフエムの愛称でコミュニティ放送をしている。 「日本一、笑顔が集まるラジオ局。笑顔で暮らそう」をキャッチフレーズに開局。花

奥州総奉行

の活動について記す唯一の文献資料である。兼任の乱以前の葛西氏の地位を明確に「奥州惣奉行」と記した史料は存在せず、可能性としては、伊沢・葛西両氏がならびたつ段階になってはじめて両者の通称として「奥州惣奉行」なる概念が発生したとも考えられ、また、葛西氏の子孫が先祖の名誉を誇って主張するようになったので

安倍氏 (奥州)

点となっていた日下部氏が征夷事業に協力的であったからであると考えられる。 安倍氏は俘囚長(俘囚の中から大和朝廷の権力によって選出された有力者)であったとの説が広く流布している。文献上では、康平7年の太政官符に「故俘囚首安倍頼時」との記載がある。 従来、安倍氏を東北地方の在地の土豪と捉え、前九年の役

奥州総大将

が鎮守府将軍も兼務し、義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国府に陸奥将軍府と呼ばれる支配機関を創設した。 しかし、建武2年(1335年)の中先代の乱を契機に足利尊氏は建武政権に反旗を翻し、建武政権は瓦解した。尊氏は奥羽の足利氏所領を管理していた斯波家長を奥州総大将に任命し、陸奥国と出羽国の軍事指揮権を

奥州藤原氏

真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。清衡は実父・経清の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。 清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかった。そのため、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州

奥州合戦 (サッカー)

ダービーマッチ > 日本のダービーマッチ > 東北ダービー > 奥州合戦 (サッカー) 奥州合戦(おうしゅうがっせん)は、日本プロサッカーリーグの東北地方に本拠地を置くクラブのうち、奥州と呼ばれる岩手県、羽州と呼ばれる山形県、秋田県にそれぞれ本拠地を置く、いわてグルージャ盛岡、ブラウブリッツ秋田、モ

奥州七観音

は『長谷寺霊験記』にみられる東北地方の観音信仰があった。 仙台藩士・佐藤信要が寛保元年(1741年)に記した『封内名跡志』では、長谷大悲閣(長谷観音)について田村麻呂の観音には長谷寺を移したとあるものが多いが田村麻呂が信仰したのは山城清水寺であるとして「事実を弁せず妄りに田村の建というは尤も疑ふ

奥

姓氏の一。

奥

(1)中へ深く入った所。 (ア)入り口から遠い所。 「引き出しの~」「路地の~の家」(イ)建物の表口から遠い所。 日々, 生活している所。 「客を~へ通す」(ウ)特に江戸時代, 将軍や大名・旗本などの屋敷で, 主人の日常生活の場所。 夫人や奥女中などが住み, 主人以外の男性が立ち入ることはできない。 将軍家の場合は大奥ともいう。 (2)表面に表れない部分。 容易にはうかがい知れない部分。 「心の~」「~の深い理論」 (3)主として身分の高い人が自分の妻をいう語。 また, 身分の高い人の妻に対する敬称。 「~はどこにぞお客が有る/浄瑠璃・忠臣蔵」 (4)文書・手紙などの終わりの部分。 「~書」 (5)将来。 行く末。 遠い先。 「伊香保ろの岨(ソイ)の榛原(ハリハラ)ねもころに~をなかねそまさかしよかば/万葉 3410」 (6)都から遠い所。 特に, 奥州。 みちのおく。 「風流の初や~の田植うた/奥の細道」 <i>~=聞こう(=聞かん)より口聞け</i> 人の心の底は深く問いただすまでもなく, 言葉の端々でわかる。

奥州家 (島津氏)

を収められず、また分家の薩州家・実久から守護職を譲るよう圧迫も受けていた。そこで勝久は有力な分家・相州家の忠良の力を借りるため忠良の子の貴久を養子にし、薩摩守護職を譲り自らは隠居する。しかし守護職復帰を目論み忠良・貴久親子と対立。この争いに敗れた勝久は豊後へ亡命し、以後の島津宗家は相州家の流れが引き継いだ。

正法寺 (奥州市)

正法寺(しょうぼうじ)は、岩手県奥州市水沢黒石町にある曹洞宗の寺院。山号は大梅拈華山(だいばいねんげざん)。本尊は如意輪観音。かつては大本山の永平寺、總持寺に次ぐ第三本山と呼ばれた。1990年(平成2年)9月11日には、本堂などが国の重要文化財に指定された。