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奥州探題

黒嶋敏「奥州探題考」『中世の権力と列島』(高志書院、2012年) ISBN 978-4-86215-113-1) P41-45. ^ 黒嶋敏「はるかなる伊達晴宗-同時代史料と近世家譜の懸隔」(初出:『青山史学』第20号(2002年)/所収:遠藤ゆり子 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二五巻 戦国大名伊達氏』(戎光祥出版、2019年)

Kata Terkait

九州探題

九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。 鎌倉時代の永仁元年(1293年)に鎮西探題が設置されたが、後にそれを踏襲する形で、室町時代に九州の統治のため設置された。室町幕府は京都に政権を置いたため、鎌倉に設置された鎌倉公方が関東を中心に、奥州探題が東

羽州探題

羽州探題(うしゅうたんだい)は、室町時代の出羽国に置かれた幕府の役職。正しくは羽州探題職(うしゅうたんだいしき)という。 奥州探題と並んで室町幕府における奥羽を統括する要職であり、それぞれ斯波氏の一門である大崎氏が奥州探題、最上氏が羽州探題を世襲した。 羽州

探題

(1)詩歌の題詠の一。 いくつかある題の中から, くじで探りとった題によって詠むこと。 探り題。 (2)〔仏〕 竪義(リユウギ)と呼ばれる仏典の問答の際, 出題および解答の判定を行い, 全体を総括する僧。 (3)(ア)鎌倉時代, 執権・連署など政務の長官の別名。 (イ)中世, 幕府から地方に派遣され, 政務・訴訟の裁断・軍事をつかさどる地方長官。 鎌倉時代には六波羅探題・鎮西(チンゼイ)探題など, 室町時代には九州探題・奥州探題などが置かれた。

奥州

陸奥(ムツ)国の別名。

長門探題

長門探題(ながとたんだい)は、一般には1276年(建治2年)に鎌倉幕府が元寇に対処するため、長門国に設置した最前線防衛機関の呼称として知られる。長門守護の権能を受け継ぎ拡大したものと考えられるが、詳細は不明。初代に相当するとされる北条宗頼以後、北条氏一門が任命された。史料上では、北条時直に対してのみ

鎮西探題

奉行として、鎌倉、六波羅探題にかわる合議制の裁判所として鎮西談議所が博多に設置された。その後、鎮西談議所の後身として、永仁元年(1293年)に9代執権北条貞時のころ北条兼時・名越時家が派遣され、鎮西探題が設置され、それまで設置されていた鎮西奉行・鎮西

奥州市

市水沢工業団地」とした。 水沢区 - 旧水沢市地域 江刺区 - 旧江刺市地域 前沢区 - 旧前沢町地域 胆沢区 - 旧胆沢町地域 衣川区 - 旧衣川村地域 県南地域を管轄とする国や県の行政機関が置かれる場合が多い。 県南広域振興局 管轄市町:奥州市、一関市、花巻市、北上市、遠野市、金ケ崎町、平泉町、西和賀町

奥州スマートインターチェンジ

市道附野下笹森線(上り線) 岩手県道236号衣川水沢線(下り線) 2013年(平成25年)6月11日 : 連結許可。 2016年(平成28年)9月17日 : 着工。 2018年(平成30年)4月21日 : 供用開始。 岩手県立水沢農業高等学校 岩手県立胆沢病院 国立天文台水沢VLBI観測所 小山製麺 E4 東北自動車道

六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北方と南方に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。 北方は赤橋家、常盤家、普恩寺家が務め、南方は大仏家、金沢

奥州仕置

領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。 豊臣秀吉による奥羽両国の無事(和平・和睦)への関与は、天正13年(1585年)の金山宗洗の奥羽への派遣から開始された。宗洗は天正16年(1588年)までに3度奥羽へ赴き、奥羽各領主と交渉を行った。天正16年9月、最上義光に続いて伊達政宗も秀吉に恭順を示し

奥州合戦

められたが、平治の乱で一日も支えられず零落し、数万騎の主であったが、長田忠致に誅されました。今と昔で優劣があるでしょうか。泰衡は僅か両国の勇士を率い、数十日も頼朝殿を悩ませました。不覚とたやすくは判断できないでしょう」と答えた。頼朝は答えを返さず対面を終えると、畠山重忠に維平を預け、芳情の施しを命じ

奥州管領

観応2年(1351年)、前年尊氏派と直義派の武力衝突で勃発した観応の擾乱が奥州まで飛火し、吉良貞家は畠山国氏が篭る岩切城を攻め、敗れた国氏とその父高国・弟直泰は自害したが、国氏の子二本松国詮は二本松に移り奥州管領として執務をしている。その子孫はそのまま二本松に土着した(二本松氏)。

奥州街道

五街道としての奥州街道は正式には奥州道中といい、厳密には江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白沢宿から白河宿までの10宿の道筋を指した。白河以北の17宿は幕府勘定奉行の管轄であり、賃銭などの統制のほかは、海道沿線の領主や旗本の管理に任されていた。白河以南・以北を合わせ、本項の扱う奥州街道は道中に27の宿場が置かれた。江戸時代には江

奥州市コミュニティバス

不可となっている(詳細はバスカードの記事を参照)。 岩手県交通所有の小型車両で運行。当初はZバス専用塗装の車両が主であったが、車両代替に伴い岩手県交通塗装の車両(路線・貸切両方の塗装車が存在する)を使用する。 [脚注の使い方] ^ a b Zバス時刻表  奥州市。PDFファイル 2023年10月25日閲覧

奥州エフエム放送

奥州エフエム放送株式会社(おうしゅうエフエムほうそう)は、岩手県奥州市および胆沢郡金ケ崎町の各地域を放送区域として超短波放送(FM放送)をする特定地上基幹放送事業者である。奥州エフエムの愛称でコミュニティ放送をしている。 「日本一、笑顔が集まるラジオ局。笑顔で暮らそう」をキャッチフレーズに開局。花

奥州総奉行

の活動について記す唯一の文献資料である。兼任の乱以前の葛西氏の地位を明確に「奥州惣奉行」と記した史料は存在せず、可能性としては、伊沢・葛西両氏がならびたつ段階になってはじめて両者の通称として「奥州惣奉行」なる概念が発生したとも考えられ、また、葛西氏の子孫が先祖の名誉を誇って主張するようになったので

安倍氏 (奥州)

点となっていた日下部氏が征夷事業に協力的であったからであると考えられる。 安倍氏は俘囚長(俘囚の中から大和朝廷の権力によって選出された有力者)であったとの説が広く流布している。文献上では、康平7年の太政官符に「故俘囚首安倍頼時」との記載がある。 従来、安倍氏を東北地方の在地の土豪と捉え、前九年の役

奥州総大将

が鎮守府将軍も兼務し、義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国府に陸奥将軍府と呼ばれる支配機関を創設した。 しかし、建武2年(1335年)の中先代の乱を契機に足利尊氏は建武政権に反旗を翻し、建武政権は瓦解した。尊氏は奥羽の足利氏所領を管理していた斯波家長を奥州総大将に任命し、陸奥国と出羽国の軍事指揮権を

奥州藤原氏

真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。清衡は実父・経清の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。 清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかった。そのため、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州