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JLPT N1 – Reading Exercise 96
私はは一人ひとりの画家がかとして、これまで数多かずおおくの展覧会てんらんかいやインタビューで自分じぶんの作品さくひんについて語かたってきた。しかし、それは私がが自分じぶんの絵画かいがについてすべてを理解りかいしているということを意味いみしない。私の制作せいさくには、明確めいかくな理論りろんや体系的たいけいてきな手順てじゅんがあるわけではない。絵えを描かくときの私はは、ただ直感ちょっかんに従したがい、色いろや形かたちが「しっくりくる」と感かんじるまで、何度なんども筆ふでを重かさねる。そして、「これ以上いじょう手てを加くわえる必要ひつようはない」と思おもえる瞬間しゅんかんに、その絵えは完成かんせいする。ただそれだけである。「しっくりくる」や「もう十分じゅうぶんだ」という判断はんだんの根拠こんきょは、説明せつめいしようとしてもできない。そして、そのようにして描かいた絵えが何なにを意味いみしているのか、自分じぶんでも明確めいかくには分わからないのである。とはいえ、私はは自分じぶんの絵画かいがについて本当ほんとうに何なにも知しらないわけではない。そもそも、何なにも知しらずに物ものを作つくることは不可能ふかのうだ。例えばたとえば、陶器とうきについても、茶碗ちゃわんというものがどのようなものかも知しらなければ、陶器とうきの茶碗ちゃわんを作つくることはできない。同じように、絵画かいがの場合ばあいも、素材そざいである絵具えのぐやキャンバス、そして構図こうずや色彩しきさいについて知しらなければ、さらに絵画かいがとは何なにかを知しらなければ、作品さくひんを生うみ出だすことはできない。絵えを描かく者ものは、当然とうぜん、それらについてある程度ていど知しっているものである。(中略ちゅうりゃく)絵画かいが制作せいさくは、必かならず何なんらかの伝統でんとうにおける「基本的きほんてきな」知識ちしきを前提ぜんていとしている。しかし、その「基本的きほんてきな」知識ちしきをそのまま(多おおくの場合ばあい、無意識むいしきに)受うけ入いれて、その範囲はんいで制作せいさくする「伝統的でんとうてきな」画家がかがいる一方いっぽうで、現代美術げんだいびじゅつに見みられるような、新あたらたな表現ひょうげんの可能性かのうせいを追求ついきゅうする画家がかは、自みずからが出発点しゅっぱつてんとした伝統でんとうの「基本的きほんてきな」知識ちしきの外そとへと踏ふみ出だそうとする。そして、この伝統でんとうからの逸脱いつだつは、常つねに実験的じっけんてきな性格せいかくを持もつ。つまり、非伝統的ひでんとうてきな素材そざいを使つかったり、従来じゅうらいにない構図こうずや技法ぎほうを試ためしたりすることで、伝統的でんとうてきな「基本的きほんてきな」知識ちしきが示しめす絵画かいがのイメージから離はなれた未知みちの作品さくひんが生うまれる可能性かのうせいがあり、そして、その未知みちのものを依然いぜんとして「絵画かいが」と呼よぶとしても、それがどのような意味いみや価値かちを持もつのかは分わからない。その意味いみや価値かちを判断はんだんするには、実際じっさいに生うまれた作品さくひんそのものをじっくり見みて確たしかめるしかない。私がが自分自身じぶんじしんの絵画かいがについて語かたれることは、まさにこのこと、すなわち、自みずからが行おこなった実験的じっけんてきな試こころみの結果けっかとして生うまれた作品さくひんについての考察こうさつであり、言いい換かえれば、自分じぶんの行為こういとその結果けっかについて自分自身じぶんじしんで解釈かいしゃくすることなのである。
JLPT N1 – Reading Exercise 97
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