私たちは頭の中で「考える」とき、決して論文のように整然とした筋道に沿って思考しているわけではない。たとえば私が評論を書く際の経験を振り返ってみても、論旨の核心となる直感や、文章全体の印象を決定づけるフレーズがふと閃いた瞬間に、「あ、これなら書ける」と思い立たずにはいられない。つまり、その時点で頭に浮かんでいるのは、あくまで断片的なイメージや大まかな展望にすぎないのである。
その点在的な断片どうしを、全体として説得力のある流れへと結びつけていく作業こそが、「書く」という行為の本質にほかならない。だが、流れの滑らかさばかりに集中しすぎると、もとの目的から逸脱せざるを得ないことも少なくない。書こうとしていた方向とは異なる展開が、言葉の流れに引きずられるようにして生じてしまうのだ。
人は必ずしも、当初意図したことを正確に書き表せるとは限らない。むしろ、積み木を重ねるように書き足していくうちに、最初は思いもよらなかったことを、知らず知らずのうちに書いてしまうことがある。そして不思議なことに、書き上げた後になって「そうか、自分はこう考えていたのか」と気づかされることも少なくない。つまり、思考とは、言葉を通して初めて輪郭を得る動的な過程にほかならないのである。
私たちの意識は、言葉とイメージの網の目の中を絶えず漂っている。そこに生じた断片的な言葉が文として定着したとき、初めて「考え」と呼べるものが生まれる。言葉を抜きにして「考え」は存在しない。多くの人は「考えが先にあって、言葉がそれを表す」と考えがちだが、実際には言葉が生まれることによって、初めて考えが形をとるにすぎない。そのため、言葉の運動が無意識のうちに構築した論旨が、いつの間にか自分の「考え」として定着してしまうという逆転現象が起こるのである。