私わたしは食たべ物ものについては好すき嫌きらいが多おおいが、研究けんきゅう{テーマ}や人間関係にんげんかんけいについてはあまり好すき嫌きらいがない。ところが、いろいろな人ひとと話はなしをしていると、意外いがいに好すき嫌きらいがあるという人ひとが多おおい。この研究けんきゅうは嫌きらいとか、この人ひとは好すきじゃないとかよく耳みみにする。しかし、どんな研究けんきゅうにも視点してんを変かえれば学まなぶところは必かならずあるし、人間にんげんも同様どうように、悪わるい面めんもあればいい面めんもある。やって損そんをするという研究けんきゅうは非常ひじょうにまれであるし、つきあって損そんをするという人間にんげんも非常ひじょうに尐すくない。科学者かがくしゃや技術者ぎじゅつしゃであるなら、発見はっけんにつながるあらゆる可能性かのうせいにアンテナを伸のばすべきで、そのためには、好すき嫌きらいがあってはいけないように思おもう。研究けんきゅうの幅はばや、発見はっけんにつながる可能性かのうせいを大おおきく狭せばめてしまう。ところで、そもそも好すき嫌きらいとは何なんだろうか?自分じぶんの研究分野けんきゅうぶんやは、理系りけいであることには間違まちがいない。しかし自分じぶんでも、理由りゆうがあって理系りけいの道みちを選えらんだとは思おもえない。単たんなる偶然ぐうぜんの積つみ重かさなりの結果けっかなのだ。「自分じぶんの好このみや得手不得手えてふえてで選えらんだ」とあとから言いうのは、その偶然ぐうぜんの選択せんたくに何なんらかの理由りゆうを与あたえないと、あとで悔くやむことになるからだと思おもう。たとえば、理系りけいの道みちを選えらんで思おもったような成果せいかを上あげられなかったとき、「なぜ文系ぶんけいの道みちを選えらばなかったのか」と思おもうような後悔こうかいである。遠とおい過去かこにさかのぼっていちいち後悔こうかいしていては、その時点じてんの目めの前まえの問題もんだいに力ちからを注そそげず、前まえまえ向むきに生いきていくことはできない。そう考かんがえると、好すき嫌きらいや感情かんじょうというものは、偶然ぐうぜんの積つみ重かさなりで進すすんでいく人生じんせいを自分じぶんなりに納得なっとくするためにあるようなものと言いえるのではないか。好すき嫌きらいや感情かんじょうは、無意識むいしきのうちに、自分じぶんを守まもるために、自分じぶんを納得なっとくさせるために、都合つごうよく持もつものなのだろう。感情かんじょうや好すき嫌きらいは元来がんらい人間にんげんに備そなわっているものであるというのは間違まちがいないが、人間にんげんは、十分じゅうぶんな理由りゆうがないまま行おこなった自みずからの行動こうどうを、納得なっとくし、正当化せいとうかするためにも、感情かんじょうや好すき嫌きらいを用もちいる。人間にんげんは、他ほかの動物どうぶつにはない、そんな感情かんじょうや好すき嫌きらいの利用方法りようほうほうを身みにつけているのかもしれない。(石黒いしぐろ浩ひろし『ロボットとは何なにか―人ひとの心こころをを映うつす鏡かがみ』による)元来がんらい:初めから
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