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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

董遵誨

十数条を訴えたが、趙匡胤は不問に付した。遵誨はますます恥じいって罪罰を課すよう願い出たので、趙匡胤はかれをなだめさとした。 董遵誨は読み書きを知らなかったが、闊達な性格で軍略に通じ、武芸は並ぶ者もなかった。通遠軍におよそ14年在任して、諸族を威服させた。 董嗣宗 董嗣栄 『宋史』巻273 列伝第32

คำที่เกี่ยวข้อง

誨諭

物事の道理を教えさとすこと。

教誨

(1)おしえさとすこと。 (2)受刑者に徳性教育をし, 正しい道に導くこと。

訓誨

教えさとすこと。 「同胞の暗愚を~し/妾の半生涯(英子)」

董

董(とう)は、漢姓の一つ。 2020年の中華人民共和国の第7回全国人口調査(中国語版)(国勢調査)に基づく姓氏統計によると中国で35番目に多い姓であり、721.25万人がいる。一方、台湾の2018年の統計では第64位で、42,487人がいる。 董翳 - 秦末の章邯の部将。 董仲舒 - 前漢の儒学者 董賢

朱友誨

宗室列伝)の記述。 友誨,全昱子,封邵王。乾化元年,以檢校兵部尚書充控鶴指揮使。坐友能反廢,後為唐兵所殺。 『資治通鑑』の記述。 邵王友誨,全昱之子也,性穎悟,人心多向之。或言其誘致禁軍,欲為亂,梁主召友誨,與其兄友諒、友能並幽於別第。及唐師將至,梁主疑諸兄弟乘危謀亂,並皇弟賀王友雍、建王友徽盡殺之。 表示

韓全誨

敬容)を誅殺することを上奏し、宦官の第五可範(中国語版)に左軍中尉を継任させ、仇承坦を右軍中尉に、王知古を上院枢密使に、楊虔朗を下院枢密使に任じた。この夜、神策都将の李継誨・李彦弼(中国語版)ら22人を斬殺し、李茂貞の義子である李継筠(中国語版)もまた斬殺した。翌日、李茂貞は、韓全誨ら22人の首級を

遵法

法律を守りそれに従うこと。 「~精神」「~を旨とする」

遵行

きまり・命令などに従って行うこと。 「藩の士人の能くこれを~するものは少い/渋江抽斎(鴎外)」 → じゅんぎょう(遵行)

遵行

(1)「遵行状」の略。 (2)室町時代, 将軍の命を守護が下達すること。

遵守

規則や法律などにしたがい, それをまもること。 「交通規則を~する」

遵奉

法律・教義などに従い, それを守ること。 「師の教えを~する」

李遵

じゅん、465年 - 508年)は、北魏の官僚・軍人。字は良軌。本貫は趙郡柏人県。 李綜(李霊の子)の子として生まれた。はじめ奉朝請・尚書度支郎に任じられた。洛陽に遷都されると、営構将となった。孝文帝の南征に従い、行台郎となった。孝文帝が洛陽に帰ると、李遵は太子歩兵校尉に任じられた。宣武帝の初年、歩兵校尉

弓遵

弓 遵(きゅう じゅん、? - 245年)は、魏の明帝の下賜品を倭国に与えた帯方太守。 238年6月、卑弥呼が魏へ朝献したことに対して、12月に魏の明帝が破格といえる莫大な下賜品を与えようとした。しかし、明帝が239年正月に崩御したことから、これらの下賜品が実際に授けられたのは240年となり、帯方

胡遵

胡 遵(こ じゅん、? - 甘露元年7月5日(256年8月12日))は、中国三国時代の軍人。雍州安定郡臨涇県の人。文武の才を併せ持ち、要地を抑える魏の武官を歴任した。子は胡広・胡奮・胡烈・胡岐など。 雍州刺史などを務めた張既によって見い出された。張既が礼をもって招聘した人物は楊阜や龐淯など、皆名声と地位を得たと言われる。

石遵

石 遵(せき じゅん)は、五胡十六国時代の後趙の第5代皇帝。字は大祗。石世を廃して帝位を簒奪したが、石閔(後の冉閔)と対立してその年のうちに殺された。 中山王石虎の九男として生まれた。333年8月、石虎が丞相・魏王・大単于に就き、自らの諸子を王に封じると、石遵もまた斉王に封じられ

遵西

非難の的となり、1207年(建永2年・承元元年)、後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出奔同然に出家した件等で罪に問われ、羅切(陰茎切断)の上、弟子とともに斬首刑に処せられた。 この事件は、法然が讃岐に、親鸞が越後に、それぞれ配流された承元の法難の直接のきっかけとなった。 承元の法難 表示

許遵

に高岳は鄴に戻ると、まもなく讒言を受けて毒殺された。 559年(天保10年)、北斉の文宣帝の無道ぶりは日増しに酷くなっていた。許遵は文宣帝のことを「狂夫」と呼んでその死を占い、「冬初を出ることはないが、わたしがそれを見ることはないだろう」と予言した。文宣帝はこの年の10月に死去したが、許遵はそれに先立つ9月に死去した。

祭遵

祭 遵(さい じゅん、? - 33年)は、後漢の武将。字は弟孫(ていそん)。潁川郡潁陽県の人(『後漢書』列伝10・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の9位に序せられる(『後漢書』列伝12)。従弟は祭肜。 若くして経書を好み、家は富裕といえども慎ましく粗末な衣服を着ていた。母を亡くした時は

張遵

炎興元年(263年)10月、魏の鄧艾の侵攻に対し、綿竹の地で諸葛瞻と共にこれを迎え撃ったが、敗れて戦死に至った(蜀漢の滅亡)。 成都武侯祠には張飛・張苞と共に像が建立されている。 羅貫中の小説『三国志演義』では第117回で登場。綿竹の戦いで先に戦死した諸葛瞻の仇を討たんと出撃する子の諸葛尚を諫める