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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

藤原定子

彼女に勝る人はいるのだろうか)の定子評を伝えている。 ^ 『無名草子』の女性作者は一条天皇と定子の理想的な関係を「皇后宮、御みめもうつくしうおはしましけるとこそ。院も、いと御志深くおはしましける」と羨み、上東門院との比較では「今少しめでたくおはしましける」と評した。同様の描写は男性の手になる『大鏡

คำที่เกี่ยวข้อง

藤原原子

御匣殿などと称されて東宮の寵愛を受けた。当世風の華やかな人柄であったといい、姉定子を訪れた時の様子が『枕草子』に登場している。 しかし入内からわずか3ヵ月後に父道隆が薨去、さらに翌年兄伊周・隆家も失脚し、中関白家は凋落した。その後は有力な後見もなく、皇子女にも恵まれないまま、姉定子、妹御

藤原定家

新古今和歌集:後鳥羽院親撰。定家は院の助手たちの中心だった。 新勅撰和歌集:定家単独撰の勅撰集、仮名序も定家。政治的な配慮で後鳥羽院、順徳院の歌が除かれている。 拾遺愚草 拾遺愚草員外 定家卿百番自歌合 定家卿独吟詩歌 秀歌大体:後堀河院に進献。

藤原定頼

宇治の川霧 絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木 (『千載和歌集』冬419) 一条天皇の大堰川行幸のお供で和歌を詠んだときのこと、父の公任も同行していて定頼の歌の出来映えを心配していた。すると定頼の番になり上の句を「水もなく見え渡るかな大堰川」と読み始めた。満々たる

藤原定方

12月17日:左近衛大将 承平2年(932年) 8月4日:薨御。8月11日:贈従一位 父:藤原高藤 母:宮道列子 - 宮道弥益の娘 妻:藤原山蔭の娘 男子:藤原佳節 男子:藤原朝忠(910-967) 男子:藤原朝成(917-974) 男子:藤原朝頼 女子:代明親王室(?-936) 女子:藤原雅正室 - 藤原伊尹家の女房

藤原定国

任されるなど、天皇の外戚として引き続き急速に昇進した。 昌泰4年(901年)に発生した昌泰の変では、蔵人頭・藤原菅根とともに醍醐天皇に対して「天下之世務以非為理」と奏上して、菅原道真が失脚するきっかけを作り、変後には道真の後任として右近衛大将を兼帯している。翌延喜2年(902年)大納言に至る。延喜4

藤原定任

父:藤原為盛 母:不詳 兄弟:藤原頼成 兄弟:藤原親国 兄弟:藤原宗盛 兄弟:藤原清仲 兄弟:藤原清綱 兄弟:勢好 兄弟:女子(源経相室) 妻:不詳 男子:中村実宗 男子:章家 男子:覚暹(仁和寺の僧) 男子:頼緑 男子:範緑 男子:廉慶(延暦寺の僧) 尊卑分脈 寛永諸家系図伝 寛政重修諸家譜

藤原定文

異母兄弟の定国・定方とは違い自身は公卿には昇れず、右馬頭を務め位階は従四位下であった。延喜7年(907年)10月17日卒去。 翌延喜8年(908年)10月に周忌が行われ、六位蔵人・藤原伊衡が諷誦した。 父:藤原高藤 母:大江元平の娘 妻:多治比氏の娘 男子:藤原信臣(?-?) 男子:藤原経臣 ^ 『西宮記』延喜8年10月11日条

藤原定実

元永本古今和歌集 - 伝源俊頼 巻子本古今和歌集 - 伝源俊頼 下絵拾遺抄切 - 伝源俊頼。『拾遺抄』巻一・三の8点が知られる巻物の断簡。銀泥で帳・鳥・草花・折枝などを下絵に描く。書芸文化院などに分蔵。 後撰和歌集切 - 伝源俊頼・伝藤原公任筆 経裏切 - 伝源俊頼 『筋切』『通切』 - 伝藤原佐理筆 治暦4年(1068年)

藤原定能

家の右近衛少将任官と引き替えに権大納言を辞職。建仁元年(1201年)に出家し、法名を定阿と称した。 父:藤原季行 母:藤原宗能の娘 妻:源通家の娘 男子:藤原親能(1169-1207) 男子:藤原定季(1173-1234) 男子:藤原資家(1182-1256) 男子:定乗

藤原定信

定信和漢朗詠集切 昭和初年、石川家の秘庫から出たもので、その奥書きに「同日未刻染筆申時終切定信」の自署があるので、定信の真跡と決定された。詩句と和歌を大きく散らし書きにしている。書風は雄健高雅で、連綿も自然で、筆端には才気が溢れており、円熟した晩年の書と推測されて

藤原定綱

男子:慶実 ^ 『皇后宮歌合』 ^ a b 『勘例』 ^ 『定家朝臣記』 ^ 『平安遺文』補110 ^ 『扶桑略記』 ^ 『本朝世紀』 ^ 10月に藤原実綱見任(『年号勘文部類抄』) ^ 『栄花物語』巻39 ^ 『水左記』 ^ 『柳原本水左記』 ^ 『尊卑分脈』 ^ 『師通記』 ^ 『中右記』 ^ 角田文衛による

藤原経定

保延5年(1139年)12月、妹・懿子が従一位左大臣源有仁の養子として雅仁親王の添臥となった。 保延6年(1140年)3月27日、美作権守を兼ねる。 保延7年(1141年)12月2日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。 永治2年(1142年)1月23日、讃岐権守を兼ねる。

藤原聖子

保元の乱の後、崇徳院が讃岐国へ配流になった際に兵衛佐局が同行したのに対し、皇嘉門院が同行せずに都に留まったのは、立場の相違に由来するものであって、寵愛の程度によるものではない。たとえば、後世の後鳥羽上皇の配流に際しても、随行したのはそれほど身分が高くない女房で、院の寵愛篤い修明門院はお供していない。貴人の配流に際し、身の回りの

藤原安子

藤原 安子(ふじわら の あんし(やすこ)、927年〈延長5年〉- 964年6月11日〈応和4年4月29日〉)は、右大臣藤原師輔の長女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。第62代村上天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇らの生母。 摂関家の次男にあたる藤原師輔の家(九条流)に生まれる。

藤原彰子

^ 彰子は当時まだ幼少で懐妊の可能性が薄く、藤原道長は姪である定子の子にあたる敦康親王を後見することで朝廷における発言権を確保しようとしていたとされる。 ^ 敦康親王を養育していたのは実母・藤原定子の妹である御匣殿であったが、彼女は一条天皇の子を懐妊する最中に逝去した。彰子はそのあとを引き取ったものと推察できる。

藤原旅子

たびこ、天平宝字3年(759年) - 延暦7年5月4日(788年6月12日))は、平安時代の貴族。桓武天皇の夫人。淳和天皇の母。藤原百川の長女で、母は従三位尚膳藤原諸姉(藤原良継の娘)。 桓武天皇擁立の功労者である藤原百川の長女として生まれる。母の父藤原良継もまた桓武天皇擁立の功労者である。延暦4年(785年)、桓

藤原詮子

。ところが円融天皇の一粒種を生みながら、関白藤原頼忠の女遵子に后の座を奪われたことで、父兼家と共に里邸の東三条邸にこもり、たびたびの召還にも応じなかった。また遵子立后の際、遵子の兄弟藤原公任は東三条邸の前で自慢げに「この女御は、いつか后にはたちたまふらむ(こちらの女御はいつ立后なさるのか)」と言っ

藤原親子

日指定 『従二位親子草子合』とも。1091年(寛治5年)10月13日、藤原親子主催(一説に藤原顕季主催)。親子の作品が含まれているかどうかは不明。 ^ この帝、坎日に生まれさせ給ひたるとぞきこへさせ給ひし。又誠にやありけむ、御乳母二位も、坎日に参り初められたりけるとかや(『今鏡』)

藤原苡子

苡子は白河院の従姉妹(院の生母茂子の姪)で、入内に当たっては院自ら世話をしたという。中宮篤子内親王は高齢で子女に恵まれず、皇子出産の期待をかけられた苡子は宗仁親王を産んだが、産後の肥立ちが悪く28歳で死去した。なお、苡子の兄公実は鳥羽天皇の外戚に、また姪の璋子は鳥羽天皇の中宮となるなど、閑院流発展の元となった。 芳賀登 他 監修 『日本女性人名辞典』