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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

藤原定方

12月17日:左近衛大将 承平2年(932年) 8月4日:薨御。8月11日:贈従一位 父:藤原高藤 母:宮道列子 - 宮道弥益の娘 妻:藤原山蔭の娘 男子:藤原佳節 男子:藤原朝忠(910-967) 男子:藤原朝成(917-974) 男子:藤原朝頼 女子:代明親王室(?-936) 女子:藤原雅正室 - 藤原伊尹家の女房

คำที่เกี่ยวข้อง

藤原定家

新古今和歌集:後鳥羽院親撰。定家は院の助手たちの中心だった。 新勅撰和歌集:定家単独撰の勅撰集、仮名序も定家。政治的な配慮で後鳥羽院、順徳院の歌が除かれている。 拾遺愚草 拾遺愚草員外 定家卿百番自歌合 定家卿独吟詩歌 秀歌大体:後堀河院に進献。

藤原定頼

宇治の川霧 絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木 (『千載和歌集』冬419) 一条天皇の大堰川行幸のお供で和歌を詠んだときのこと、父の公任も同行していて定頼の歌の出来映えを心配していた。すると定頼の番になり上の句を「水もなく見え渡るかな大堰川」と読み始めた。満々たる

藤原定国

任されるなど、天皇の外戚として引き続き急速に昇進した。 昌泰4年(901年)に発生した昌泰の変では、蔵人頭・藤原菅根とともに醍醐天皇に対して「天下之世務以非為理」と奏上して、菅原道真が失脚するきっかけを作り、変後には道真の後任として右近衛大将を兼帯している。翌延喜2年(902年)大納言に至る。延喜4

藤原定任

父:藤原為盛 母:不詳 兄弟:藤原頼成 兄弟:藤原親国 兄弟:藤原宗盛 兄弟:藤原清仲 兄弟:藤原清綱 兄弟:勢好 兄弟:女子(源経相室) 妻:不詳 男子:中村実宗 男子:章家 男子:覚暹(仁和寺の僧) 男子:頼緑 男子:範緑 男子:廉慶(延暦寺の僧) 尊卑分脈 寛永諸家系図伝 寛政重修諸家譜

藤原定子

彼女に勝る人はいるのだろうか)の定子評を伝えている。 ^ 『無名草子』の女性作者は一条天皇と定子の理想的な関係を「皇后宮、御みめもうつくしうおはしましけるとこそ。院も、いと御志深くおはしましける」と羨み、上東門院との比較では「今少しめでたくおはしましける」と評した。同様の描写は男性の手になる『大鏡

藤原定文

異母兄弟の定国・定方とは違い自身は公卿には昇れず、右馬頭を務め位階は従四位下であった。延喜7年(907年)10月17日卒去。 翌延喜8年(908年)10月に周忌が行われ、六位蔵人・藤原伊衡が諷誦した。 父:藤原高藤 母:大江元平の娘 妻:多治比氏の娘 男子:藤原信臣(?-?) 男子:藤原経臣 ^ 『西宮記』延喜8年10月11日条

藤原定実

元永本古今和歌集 - 伝源俊頼 巻子本古今和歌集 - 伝源俊頼 下絵拾遺抄切 - 伝源俊頼。『拾遺抄』巻一・三の8点が知られる巻物の断簡。銀泥で帳・鳥・草花・折枝などを下絵に描く。書芸文化院などに分蔵。 後撰和歌集切 - 伝源俊頼・伝藤原公任筆 経裏切 - 伝源俊頼 『筋切』『通切』 - 伝藤原佐理筆 治暦4年(1068年)

藤原定能

家の右近衛少将任官と引き替えに権大納言を辞職。建仁元年(1201年)に出家し、法名を定阿と称した。 父:藤原季行 母:藤原宗能の娘 妻:源通家の娘 男子:藤原親能(1169-1207) 男子:藤原定季(1173-1234) 男子:藤原資家(1182-1256) 男子:定乗

藤原定信

定信和漢朗詠集切 昭和初年、石川家の秘庫から出たもので、その奥書きに「同日未刻染筆申時終切定信」の自署があるので、定信の真跡と決定された。詩句と和歌を大きく散らし書きにしている。書風は雄健高雅で、連綿も自然で、筆端には才気が溢れており、円熟した晩年の書と推測されて

藤原定綱

男子:慶実 ^ 『皇后宮歌合』 ^ a b 『勘例』 ^ 『定家朝臣記』 ^ 『平安遺文』補110 ^ 『扶桑略記』 ^ 『本朝世紀』 ^ 10月に藤原実綱見任(『年号勘文部類抄』) ^ 『栄花物語』巻39 ^ 『水左記』 ^ 『柳原本水左記』 ^ 『尊卑分脈』 ^ 『師通記』 ^ 『中右記』 ^ 角田文衛による

藤原経定

保延5年(1139年)12月、妹・懿子が従一位左大臣源有仁の養子として雅仁親王の添臥となった。 保延6年(1140年)3月27日、美作権守を兼ねる。 保延7年(1141年)12月2日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。 永治2年(1142年)1月23日、讃岐権守を兼ねる。

藤原季方

藤原 季方(ふじわら の すえかた)は、平安時代後期の武将。藤原北家秀郷流。 河内源氏の源頼義の郎党・藤原季俊の子として誕生。父・季俊は前九年の役の際に安倍貞任・重任・藤原経清の首を京に送った。 季方は頼義の三男・義光に仕えるが、後には滝口武者にもなった。後三年の役の際には主人・義光と共に清原武衡・

藤原実方

ウィキクォートに藤原実方に関する引用句集があります。 藤原 実方(ふじわら の さねかた)は、平安時代中期の貴族・歌人。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。官位は正四位下・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。 父・定時が早逝したため、叔父で大納言・藤原済時の養子となる。

藤原元方

藤原 元方(ふじわら の もとかた)は、平安時代中期の公卿。藤原南家、参議・藤原菅根の次男。官位は正三位・大納言。 延喜6年(906年)17歳にして文章得業生となる。越前大掾・式部丞を経て延喜17年(917年)従五位下・刑部少輔に叙任される。延喜18年(918年)権右少弁兼侍従に任ぜられると、延喜2

藤原長方

位に昇叙。後に中風により出家。建久2年(1191年)3月10日薨去。享年53。 家集に『按納言長方集』、日記に『禅中記』(尊経閣文庫蔵)がある。 剛直な人柄であり、平清盛の政策にしばしば反対した。福原遷都に異を唱え、後白河法皇の幽閉に反対している。 一方、和歌にも秀でており、元暦元年(1184年)の

藤原興方

男子:藤原季雅 女子:藤原惟任室 女子:源頼国室 女子:平雅康室 女子:高階成章室 女子:藤原資業室 ^ 『西宮記』延長8年4月15日条 ^ 『類聚符宣抄』第8所収任符請印宣旨 ^ 『大嘗会禊部類記』 ^ 『御産部類記』 ^ 『尊卑分脈』藤原南家真作流 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年 宮崎康充編『国司補任

藤原隆方

男子:猷乗 女子:藤原光子(1060-1121) - 藤原公実室 女子:康資王室 女子:藤原仲実妻 ^ 藤原南家永業(永頼孫)の男。 ^ 『今鏡』すべらぎの上 第一 司召 ^ 『大記』承暦3年正月9日条 竹鼻績『今鏡 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1984年 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年

藤原惟方

に任ぜられ、左衛門権佐・権右中弁を兼ね、三事兼帯の栄誉に浴する。さらに、保元3年(1158年)には蔵人頭、次いで二条天皇の即位に伴い参議に任ぜられる。二条天皇即位後は大炊御門経宗らと共に天皇親政派を組織し、後白河上皇院政派の中心人物である信西と対立、その一方で院政派ながら同様に

蘇定方

蘇 定方(そ ていほう、592年 - 667年)は、中国の唐の軍人。名は烈。定方は字であり、字をもって通称される。本貫は冀州武邑県。 蘇邕の子として生まれた。隋末に蘇邕は郷里の数千人を率いて叛乱の討伐にあたった。定方は15歳で父の下で従軍し、しばしば先頭に立って敵陣を陥落させた。蘇