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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

足利義教

籤引きを行い、義持の弟である梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆・義円の中から次期将軍を選ぶことになった。 1月17日、石清水八幡宮で籤が引かれ、翌日の義持死亡後に開封された。後継者に定まったのは義円だった。このことから「籤引き将軍」とも呼ばれる。

คำที่เกี่ยวข้อง

足利義量

大酒を戒められ、近臣は義量に酒を勧めないよう起請文をとられたという話なども伝えられている。ただし清水克行は、起請文の一件は義持本人が度々「禁酒令」を出していたことによるもので、これを除くと義量と酒に関係する同時代史料は見い出せず、義量が大酒飲みであったとする事実は認められないと指摘している。

足利直義

名将楠木正成を討ち取る武功をあげた。 室町幕府草創期においては、「三条殿」と称されて実質的な幕政の最高指導者となり、公卿の地位に登った。卓越した政治的手腕によって幕政の礎を築き、北朝の光厳上皇との関係強化にも努め、厚い信頼を

足利高義

b c 『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)の高義の記事中の“高義 嫡子、号円福寺殿、文保元年六月廿四日卒”による。田中 2013, p. 386, 「下野足利氏関係史料」にも掲載あり。 ^ 前田治幸 著「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」、阿部猛 編

足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府の第15代(最後の)征夷大将軍(在職:1568年〈永禄11年〉- 1588年〈天正16年〉)。 父は室町幕府の第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子息として、慣例により仏門に入っ

足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府の第10代征夷大将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘・日野良子(日野富子の妹)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永

足利義明

)。義明は武勇に優れ、自ら陣頭指揮をとり、里見義堯と連携して合戦に挑むも、軍議で義堯の「敵が川を渡っている間に矢を射かける」という作戦をはねのけ、「足利一族である私にまともに弓を引けるものが居る筈がない」という理由で北条軍が川を渡り切ってから攻撃を開始する方針を伝え、義堯を落胆させたという。実際義

足利義澄

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府の第11代征夷大将軍。(在職:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は第8代征夷大将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高

足利義純

元久2年(1205年)、畠山重忠が北条氏により滅ぼされる(畠山重忠の乱)。北条政子・義時姉弟は、重忠の妻であった妹(北条時政の娘)を憐れみ、義純と婚姻させ、畠山の名跡と跡式(所職)などを相続させた。 なお、義純は時政女を所生とする畠山重忠の娘と婚姻したという説もある。「津川本畠山系図」では、義純の三男・畠山泰国の項目に

足利義山

明治24年(1891年)法嗣大谷峻麿(光瑞)の学事係を務め、大谷学問所において教行信証などを進講した。同年、東陽円月と滅罪義論争を展開し、円月の「体滅相存説」を批判して「いわれ滅罪説」を主張した。 明治23年(1890年)に勧学となり、明治28年(1895年)西本願寺の安居で「正信念仏偈」を講義した

足利義輝

p. 22. ^ a b 天野 2016, p. 32. ^ 天野 2014, p. 98. ^ 黒嶋敏「はるかなる伊達晴宗-同時代史料と近世家譜の懸隔」(初出:『青山史学』第20号(2002年)/所収:遠藤ゆり子 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二五巻 戦国大名伊達氏』(戎光祥出版、2019年)

足利義視

義視との関係など詳細については不明である。子の一色材延(きのぶ)も義視の子で第10代将軍となった足利義材(義稙)から1字を受けている。 一色視元 大舘視綱 種村視久 [脚注の使い方] ^ 読みは同じく「よしみ」と思われる。 ^ 義廉は廃嫡阻止のため派閥結成に奔走していた動きがあり、宗全・義就と結びつ

足利義勝

足利 義勝(あしかが よしかつ)は、室町時代中期の室町幕府第7代征夷大将軍(在任:1442年 - 1443年)。第6代将軍・足利義教の長男。 永享6年2月9日(1434年3月19日)、6代将軍・足利義教の長庶子として誕生した。母は側室・日野重子であるが、正室・正親町三条尹子の猶子となり、世子

足利義尊

義尊は坂本城から東坂本の定額寺に移り、そこで連日酒宴・猿楽・連歌などをして遊んでいたという(『赤松盛衰記』)。但し、自分の花押を据えた軍勢催促状は諸方に出している。満祐にすれば義尊はあくまで旗頭に過ぎず、味方を増やすために必要であり、義尊が武将として陣頭に立つ事など最初から期待していなかったとされている。

足利義政

足利 義政は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代征夷大将軍(在職:文安6年4月29日(1449年5月21日) - 文明5年12月19日(1474年1月7日))。 第6代将軍・足利義教の五男。母は日野重子。第7代将軍・足利義勝の同母弟にあたる。

足利義詮

日用工夫集』)。遺骨は神奈川県鎌倉市浄妙寺光明院に納められ、神奈川県鎌倉市瑞泉寺および神奈川県鎌倉市円覚寺黄梅院も分骨を許可された(『空華老師日用工夫集』)。その他の寺は義詮の遺命にないとして分骨を許可されなかった(『空華老師日用

足利義満

という諡を送っている。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。 義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第

足利義晴

和睦し、亀王丸を義村のもとから引き離した。亀王丸を失った義村が村宗に謀殺されたのは、その5ヶ月後のことであった。 7月6日、亀王丸は播磨から3万人の供勢を引き連れて上洛し、高国の歓待を受けた。その後、仮の御所として上京の岩栖院に入った。公家の鷲尾隆康は自身の日記に「不慮の御運で、誠に奇特だ」と、新将

足利義兼

足利 義兼(あしかが よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人。足利宗家2代当主。室町幕府初代将軍足利尊氏は昆孫に当たる。 幼い時に父・足利義康を亡くした義兼は、伯父・源(新田)義重の軍事的庇護を受けていたとされる。 治承4年(1180年)に血縁的に近い源頼朝が以仁王の令旨に

足利義久

幕府に反抗する持氏と幕府寄りの家臣との間に不和が生じ、永享の乱となる。そして、永享の乱に敗れて自害するが、その死については三つの説がある。 『喜連川判鑑』・『足利家通系図』・『下野喜連川足利家譜』によると、永享10年(1438年)11月1日、三浦時高と上杉持朝、二階堂氏らが鎌倉大蔵谷に乱入して近習の