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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

魏驥

魏 驥(ぎ き、1374年 - 1471年)は、明代の官僚。字は仲房、号は南斎。本貫は紹興府蕭山県。 魏希哲の子として生まれた。1406年(永楽4年)、進士乙榜に及第し、松江府訓導に任じられた。いつも夜分に茶粥を携えて諸生を労ったので、諸生も発奮して学問成就させる者が多かった。魏驥

คำที่เกี่ยวข้อง

驥尾

〔「驥」は一日に千里を走るという駿馬(シユンメ)〕 駿馬の尾。 駿馬の後ろ。 また, すぐれた人の後ろ。 <i>~に=付(フ)・す(=付(ツ)・く)</i> 〔史記(伯夷伝)〕 すぐれた人に従えば立派なことを成しえる。 また, 先達の業を見習って事をする。 多く自分の行為を謙遜していう語。

良驥

非常に優秀な馬。 駿馬。

驥足

〔駿馬の足の意〕 才能のすぐれた人物。 <i>~を展(ノ)ば・す</i> 〔蜀書(龐統伝)〕 すぐれた人物がその才能を十分に発揮する。 「文芸美術の方で~・さうとしたり為て/一隅より(晶子)」

黄驥

文章を礼部尚書の呂震に示し、呂震を叱責した。後に黄驥は右通政に転じた。1427年(宣徳2年)、李琦や羅汝敬とともにベトナムの後陳朝に派遣され、陳暠を安南国王に封じた。1428年(宣徳3年)、帰国した。ほどなく死去した。著書に『黄門奏草』があった。 『明史』巻164 列伝第52 金鉷『広西通志』巻77

劉驥

劉 驥(りゅう き)は中華民国の軍人・政治家。国民軍、国民革命軍(国民政府)に属する。字は谷生、菊村。祖貫は湖北省鍾祥県。 1905年(光緒31年)に湖北高等小学堂を卒業し、さらに東三省陸軍講武堂で学んだ。卒業後に新軍に加入し、第20鎮を率いる張紹曽の配下となる。このとき、馮玉祥率いる部隊に編入され、馮が主宰する武学研究会に加入した。

杜驥

杜 驥(と き、387年 - 450年)は、東晋から南朝宋にかけての官僚・軍人。字は度世。本貫は京兆郡杜陵県。 西晋の征南将軍杜預の子の杜耽の曾孫にあたる。義熙13年(417年)、桂陽公劉義真が長安に入ると、杜驥は雍州主簿として召された。永初3年(422年)、劉義真の下で車騎行参軍となり、員外散騎侍

魏魏

(1)高く大きいさま。 「~たる岩峰」「~と雲を凌ぐ高楼/花間鶯(鉄腸)」 (2)おごそかで威厳のあるさま。 「神徳~たり/栄花(鳥の舞)」

魏

中国の国名。 (1)戦国時代の七雄の一。 晋の有力世族魏氏が韓・趙両氏とともに晋の領地を三分し, 今の山西省南西部から河南省北部を領有, 文侯が周王より諸侯に封じられて成立((前403-前225))。 李悝(リカイ)らを重用し富国強兵に努めたが, 秦に滅ぼされた。 (2)三国の一。 後漢末の群雄割拠に華北を統一し実権を握って魏王となった曹操(ソウソウ)の死後, その子曹丕(ソウヒ)(文帝)が, 後漢の献帝に譲位を迫って王朝を建てた(220-265)。 都は洛陽。 国力は三国のうち最強で, 蜀・呉を圧したが, 五代元帝の時, 臣下の司馬氏に代わられた。 → 晋(2) (3)北朝の一。 鮮卑族の拓跋珪(タクバツケイ)が華北に建国(386-534)。 都は平城, のち洛陽に遷(ウツ)る。 積極的な中国同化政策を進めたが, その矛盾から反乱が起こり, 534年, 東魏(534-550)と西魏(535-557)に分裂した。 北魏。 後魏。 元魏。 拓跋魏。

渡辺驥

渡辺 驥(わたなべ すすむ、天保7年9月9日(1836年10月18日) - 明治29年(1896年)6月24日)は、幕末の松代藩士、明治期の検事。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。通称は左太郎。 信濃国松代城下代官町に松代藩士・槍術師範の渡辺十太夫の長男として生まれる。佐久間象山の門に入り、

魏書 (曹魏)

累載不成。又命侍中韋誕・應璩・秘書監王沈・大將軍從事中郎阮籍・司徒右長史孫該・司隸校尉傅玄等、復共撰定。其後王沈獨就其業、勒成『魏書』四十四巻。其書多為時諱,殊非實録。」 『晋書』王沈伝「大將軍曹爽辟為掾、累遷中書門下侍郎。及爽誅、以故吏免。後起為治書侍御史、轉秘書監。正元中遷散騎常侍・侍中・典著作。與荀顗、阮籍共撰魏書。」

川村驥山

1958年、日展評議員就任。 1962年、芸術院会員、日展理事に就任。驥山館開館。 1965年、勲三等瑞宝章受章。 1969年、4月6日死去。従四位を追贈される。 昭和の剣聖と言われた中山博道に書道を教えた。 「驥山狂草飲中八仙歌」 五禾書房 1962年(昭和十六人集) 「驥翁自適帖」 二玄社 1965年 [脚注の使い方]

魏書

(1)中国の正史の一。 北魏に関する史書。 北斉の魏収の撰。 554年に完成。 帝紀一二巻, 列伝九二巻, 志一〇巻。 現行本は宋代に修補されたもの。 北魏書。 後魏書。 (2)「魏志」に同じ。

元魏

魏(ギ){(3)}の別名。

阿魏

〔イラン語から〕 (1)セリ科の多年草。 イラン・アフガニスタン地方原産。 茎は太く高さ約1メートル。 葉は大きく, 形はニンジンに似て羽状に細裂する。 茎頂に黄色の小花を多数つける。 (2){(1)}の茎から取れるゴム状樹脂を固めたもの。 咳止め・虫下しなどの薬用にする。

魏志

中国, 三国時代の魏に関する歴史書「魏書」の通称。 三〇巻。 西晋の陳寿の撰。 本紀四巻, 列伝二六巻。 「蜀書」「呉書」とあわせて「三国志」と称される。 → 魏志倭人伝

魏収

を著し奏上した。しかし、魏収の撰した『魏書』は、編纂にあたって自分の意見に従う者だけを史官として任命したことや、敵対した者をことごとく貶め、記述に公平さを欠くことなどから、評判はすこぶる悪く、「穢史」と称されたりもした。また、自らの才覚を

魏冄

きっかけに魏冄の権力はますます強まっていった。 昭襄王10年(紀元前297年)、趙の楼緩が秦に来て宰相となった。趙はこれを自国の不利になると考え、仇液という者を遣わせて、楼緩を罷免して魏冄を宰相とするように請うた。秦はこれを受け入れ、昭襄王12年(紀元前295年)に魏冄は宰相となった。

魏浚

、劉曜は兵を分けて河北で迎え撃ち、伏兵をもって劉演・郭黙の軍を撃破すると、その騎兵は尽く捕らえられた。魏浚は夜闇に乗じて逃亡を図ったが、劉曜に捕らえられて殺害された。 朝廷より、平西将軍の位を追贈された。族子の魏該が魏浚の勢力を引き継いだ。 『晋書』巻63 列伝第33 『資治通鑑』巻88 , 巻89

魏州

魏州は武陽郡と改称され、下部に14県を管轄した。隋代の行政区分に関しては下表を参照。 621年(武徳4年)、唐が竇建徳を平定すると、武陽郡は魏州と改められた。662年(龍朔2年)、魏州は冀州と改称された。672年(咸亨3年)、冀州は魏州の称にもどされた。742年(天宝元年)、魏州は魏