JLPT N1 – Reading Exercise 99
通勤路の途中に、小さな製本工房がある。店ができてからもう十年以上経つが、外から中の様子が見えるわけでもなく、看板も控えめで、何の店なのか長らく分からなかった。夫がある日、「毎日たくさん本を直す仕事でもなさそうだし、客が出入りしているのを見たことがないよね」と言った。確かに、店内は静まり返り、奥にいる店主らしき人物が黙々と作業しているだけ。時折、郵便で届いたらしい包みが積まれているのを見かけるので、もしかするとネットで注文を受けているのかもしれない。夫はその後も「1」不思議そうにしていた。
一年ほど経ったある日、偶然その謎が解けた。
たまたま読んでいた同年代の男性のエッセイに、この工房を訪れた話が載っていた。大切にしていた本の表紙が破れてしまい、修理を依頼したという。伝統的な和綴じや革装丁の技術で、傷んだ部分を補修し、元の風合いを損なわずに蘇らせるのだという。その仕上がりは、むしろ新たな魅力を加えているようだった。
身近にそんな専門の職人がいたとは思わず、「2」心に明りが灯るような気がした。我が家にも、祖父が愛読していた詩集や、学生時代に繰り返し読んだ文庫本など、傷みが目立つけれど捨てられない本がある。もしそれらを再び手に取れるようになったら、どれほど嬉しいだろう。
思い立って工房を訪ねると、「どうぞ、ゆっくり見ていってください」と店主は穏やかに迎えてくれた。作業の合間に窓越しに外を眺めていることが多く、「近所の人の顔は何となく覚えているんですよ」と微笑む。こちらが一方的に観察しているつもりだったが、実は見られていたのだ。
「3」すっかり気が軽くなって、本の思い出や修理の希望を話すことができた。
(中略)
新しい本を買った方が手軽だと分かっていても、長年手元に置いてきた一冊には特別な思い入れがある人が増えている。一方で、古書店や図書館から大量の修理 依頼が届くこともある。「何度も修理した本がまた戻ってくることもあって、どんなふうに使われているのか想像することがあります。」
物は必ず古び、壊れていく。この自然の摂理があるからこそ、長い年月を経て残されたものに対して感謝の気持ちが湧くし、儚さと美しさは表裏一体だ。ふとした拍子にページを破ってしまったとき、もう元には戻らない現実に落込むこともある。
製本の修理は、そんな心の痛みまでそっと癒してくれる伝統の技だ。頼れる職人がいると思うと心強いが、それだけに、これからはより丁寧に本を扱おうと、修復された一冊を手にして改めて思う。