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立山橋

(大正5年)に、現在の『立山橋』に改称された(水橋に所在していた立山橋は、これに伴い『東西橋』に改称している)。1927年(昭和2年)、県費により木鉄吊橋(岩峅寺側が土橋)に架け替えられ、1963年(昭和38年)に、現在の橋に架け替えられた。 [脚注の使い方] ^ a b c d e f g 富山大百科事典編集事務局編、『富山大百科事典

Kata Terkait

藤橋 (立山町)

嶮河の欠路をつたふ、かの籮の渡につく。今は葛藤の絃橋を四十間のいらち川にかけたり。凹に撓めるが毒蛇の口にわたせしもかくこそ。見るさへ肝つぶれぬ。梢颪のたゆめるひまに目ふたぎ。南無の声ともにむかふの岸につきぬ。 かくのごとく藤橋は立山登山の難所として伝えられており、1806

橋立

橋立(はしだて、はしたて)は 日本の地名・地形 天橋立は、日本三景の一つ。 淡路橋立は、兵庫県洲本市(淡路島)にある成ヶ島の別称。 下野国安蘇の湖畔に在った東山道の橋立は、美加保乃関と云い 慈覚大師円仁 の生誕地でもある。 橋立鍾乳洞は、埼玉県秩父市にある鍾乳洞。 橋立村、橋立町 - 石川県江沼郡にあった自治体(現・加賀市)。

立日橋

その後、2000年(平成12年)1月に多摩モノレール立川北~多摩センター間が開業し、道路橋上のモノレール部分が開通した。 橋種 単軌、道路橋 位置 左岸:40.4k +44m 右岸:40.4k +26m 地先名 左岸 立川市柴崎町六丁目 右岸 日野市日野本町六丁目 竣工年月日 1989年(平成元年)3月

天橋立

分断し、切戸と文殊水道(天橋立運河)によって両水域がかろうじて繋がっている。切戸には大天橋という橋が架かる。また文殊水道には小天橋という橋が架かり「廻旋橋」として知られる。さらに文殊水道を隔てて南側にある部分を第2小天橋という。これら3か所で天橋立の砂州部分をなし、全幅は20-170メートル、全長は大天橋と小天橋を合わせて約3

橋立丸

橋立丸(はしだてまる)は、日本海洋漁業統制株式会社(後に日本水産、現・ニッスイ)が太平洋戦争中の1944年に建造した戦時標準船仕様のタンカー。戦後、捕鯨母船へ改装されて南極海での捕鯨や石油輸入に従事し、日本の戦後復興に貢献した。 本船は、太平洋戦争における日本の第1次戦時標準船のうち大型タンカー規格である1TL型

立川橋

立川橋(たちかわはし)は福島県河沼郡会津坂下町から同県同郡湯川村に跨る道路橋である。 全長:314.9 m 主径間:52.2 m 幅員:10.0 m 形式:3径間鋼連続非合成鈑桁橋×2(計6径間) 竣工:1983年 施工:川崎重工業・松尾橋梁 会津坂下町と湯川村の境をなす一級水系阿賀川を渡り、福島県道127号会

橋立町

江戸時代から明治時代にかけて、橋立港は北前船の拠点として栄えた。明治期までは回船関係の従事者が多かった。現在の橋立港はズワイガニや甘エビなどの水揚げで知られる。 石川県道19号橋立港線 石川県道143号深田片野下福田線 石川県道148号小塩潮津線 石川県道295号小松加賀自転車道線

立山

飛騨山脈の高峰, 立山(タテヤマ)の古名。

立山

(1)富山県東部, 飛騨山脈北西にある火山。 大汝(オオナンジ)山(海抜3015メートル)を最高峰とし, 別山・雄山の三山からなる。 江戸時代には信仰登山が盛んであった。 たちやま。 (2)富山県東部, 中新川郡の町。 東部は立山ほかの飛騨山脈が控え, 山岳観光の拠点。 立山黒部アルペンルートが通る。

村山橋

m、車道幅5.5 mの2車線、鉄道幅3.8 m、7連のトラス橋とコンクリート製桁橋11連、単純鋼板桁橋33連を組み合わせたものであり開通当時は日本一の長さであった。共用となっていたのはこのうちトラス橋部分で、桁橋の部分は鉄道と道路がそれぞれ独立した橋となっていた。ただし独立部分を含めて監督は長野県が担当

金山橋

工費は当時の金額で1億3430万3千円。 本橋の架橋等の改良工事により、太平洋側のいわき市、郡山市、そして新潟市などを結ぶ国道49号の改良が進み、物流面などでも大きな役割を果たしたとされる。 当橋梁の西詰には金山橋西交差点があり、東部幹線(郡山市道1-52号日出山久保田線)と交わる交通の要衝として機

兼山橋

幅員:6m 区間:岐阜県加茂郡八百津町和知 - 岐阜県可児市兼山 1891年(明治24年)9月5日、兼山橋(初代)が開通する。延長265尺(約80m)、幅10尺(約3m)の全木製の吊り橋であった。開通当初の料金は、人が7厘、荷車人力車が2銭、牛馬が2銭5厘であった。位置は現在の兼山橋の約900m下流であった。

岩橋山

河内と大和の国境にある葛城山(ここでいう葛城山とは、金剛山地全般を指している。詳細は「葛城山」の呼称を参照してください。)で修行していた役行者は、修行の為、吉野金峰山から大峰山にも山入りするようになった。その結果、役行者に帰依していた一般人も彼を見習って葛城山と吉野金峰山の両聖地を目指して信仰登山を開始しだした。

犬山橋

新鵜沼駅の間に位置し、橋の北端が新鵜沼駅に、南端が犬山遊園駅にそれぞれ通じている。道路橋開通までは現在の鉄道橋内に道路(県道27号春日井各務原線、旧・国道41号)が敷かれ、その中央に複線の鉄道線路があったため、路面電車と同様に道路上を鉄道が通行する鉄道道路併用橋となっていた。

守山橋

かつて守山と長慶寺を結ぶ交通手段として守山の渡しがあった。1876年(明治9年)12月、石川県庁(当時は石川県の管轄下だった)はこの渡舟に対し1人2厘、馬1疋は口附共4厘、駕1挺人足共6厘の渡賃を許可し、出水時の増賃を禁止している。1907年(明治40年)1月、両村共同で長さ75間(126.4 m)、幅9尺(2

山都橋

に当たり河川水深が深いことなどからローゼ橋が採用され、鋼製アーチ部と主桁部は緑色に塗装されており、豪雪地帯であることから二本のアーチ部材を結ぶ上部の梁材には、積雪を防ぐためにパイプ形状の部材が用いられている。 明治時代末頃まで当地近辺では渡し船が用いられており、1929年(昭和4年)に初代の橋梁とな

立山火山

火山。弥陀ヶ原火山(みだがはらかざん)とも呼ばれる。富山県に属する。 室堂平から、天狗平、弥陀ヶ原、美女平と続くなだらかな斜面と立山カルデラ、そして鷲岳・鳶山を含んだ五色ヶ原が立山火山である。 かつて成層火山があったものが、弥陀ヶ原と五色ヶ原を分ける立山カルデラの侵食が進んで山頂部が失われていったと

加賀橋立

1872年(明治5年)、大火に見舞われ集落の約6割を消失したが、北前船の廻船業が最高潮であったため速やかに復興し、より豪壮な家屋が再建された。しかし、明治時代後半になると、汽船や鉄道、電信の発達により、帆船である北前船は輸送業の座を奪われ、北前船の数も減少し船主達は他の

天橋立駅

宮津警察署天の橋立交番(駅舎に併設) 天橋立温泉「智恵の湯」 天橋立海水浴場 天橋立公園 天橋立ビューランド 天橋山智恩寺 天橋立観光船のりば 天橋立桟橋(一の宮桟橋方面) 廻旋橋 天橋立ホテル 玄妙庵 智恩寺 文珠浜公園 どん淵池 - 旧舟屋跡。入江の名残り。 京都府道・兵庫県道2号宮津養父線 京都府道802号田井大垣自転車道線