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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

纂修

[さんしゅう]
「纂輯(サンシユウ)」に同じ。

คำที่เกี่ยวข้อง

呂纂

龍飛4年(399年)、病気が重くなった懿武帝は太子呂紹(呂纂の異母弟)を天王とし呂纂を太尉とした。懿武帝は臨終の際「呂紹は非才だが嫡子のため元首になる」と呂紹を常山公呂弘と共に補佐するよう遺言した。こうして呂紹が跡を継いだ(隠王)が、呂紹は呂纂に殺されるのを恐れて位を呂纂に

類纂

同種類のものを集めて編纂すること。 また, その書物。 「記録より要領の事件を抄出~せられ/新聞雑誌21」

論纂

論文を集めた本。 「国文学~」

編纂

いろいろな材料を集めて整理し書物をつくること。 編修。 「国史を~する」

纂訳

(いろいろな書物を)翻訳し, 編集して一つの書物にまとめること。 「矢野文雄大人(ウシ)の~せられし経国美談といへる書/小説神髄(逍遥)」

纂述

材料を集めて文章に述べること。 「市史を~する」

纂録

集めて記録すること。 集録。

苻纂

4月、前秦の益州刺史楊定と共に後秦領の涇陽を攻め、大勝を挙げた。その後、姚萇自らが救援に到来すると、敷陸まで後退した。 9月、前秦の征虜将軍・馮翊太守蘭櫝は2万の兵を率いて頻陽から和寧まで進出し、苻纂は彼と連携して長安奪還を目論んだ。この時、苻師奴は苻纂へ自ら帝位に即くよう勧めたが、苻纂は聞き入れなか

申纂

申 纂(しん さん、生年不詳 - 467年)は、南朝宋の軍人。本貫は魏郡魏県。 申鍾の曾孫にあたる。北魏の道武帝が中山を平定した時、申纂の父祖は一族を連れて南に亡命し、済陰に家を構えていた。宋の孝武帝の時、申纂は平原郡太守となった。後に東平郡太守に転じた。泰始2年(466年)、明帝の即位に対抗する

張纂

高歓の下で行台右丞となり、武定4年(546年)には玉壁の戦いに参加した。東魏軍が山東に帰還しようと晋州に達したとき、おりからの寒雨に遭い、兵士たちは飢え凍えて、死者を出すまでになった。晋州は辺禁をたてに入城させようとしなかった。張纂は別使としてこれに遭遇すると、開門させて兵士た

劉纂

劉 纂(りゅう さん、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将。妻は孫権の娘(次女)・孫魯育の二人が確認されている。 嘉禾4年(235年)、廬陵郡の李桓と路合・会稽郡の随春・南海郡の羅厲らの賊徒が時を同じくして蜂起した。孫権は呂岱に詔を下し、劉纂・唐咨らを指揮してそれぞれに分かれて討伐させた。随春はた

呉纂

呉 纂(ご さん、? - 太平元年(256年))は、中国三国時代の呉の人物。揚州呉郡呉県の人。父は呉祺。妻は滕胤の娘。 大伯母の呉夫人は孫堅の妻で、『三国志』に立伝され、彼女の伝に一族と共に記述される。都亭侯の父・呉祺が亡くなるとその後を継いだ。 太平元年(256年)10月、呉の政権を取っていた孫

大村纂

ETHより理学博士、上級助手就任 1983年 - ETH教授就任 1989年 - グローバルディミング(地球薄暮化)の発見 1991年 - 「熱収支・質量収支を中心とする雪氷・大気相互作用の研究」で日本気象学会堀内基金奨励賞受賞 1992年 - 国際放射モニターセンター(WRMC)所長兼任(2007年まで)

水府系纂

7冊と目録2巻、附録1巻である。なお、第58巻上と第61巻は欠本となっている。 欠本掲載の諸家 ※ 『水府系纂総目録』によって各家の初代のみ記す。イロハ順。△は絶家。 第58巻上 荷見茂衛門守之 △初山与左衛門収重 △本多諤衛門武貞 別所左兵衛範治(分家有り) 茅根如水伴通 △大岡三大夫信就 吉見軍次直久(分家有り)

系図纂要

『系図纂要』(けいずさんよう)は、江戸時代末期の系譜集成。全102巻(103冊)。著者は『大日本野史』の著者でもある飯田忠彦とみられる。既存の系譜集や記録などを広く集めて再編纂しており、史料価値が高いとされる。 水戸藩の『大日本史』編纂に対して諸国から情報が集められていたが、そのなかで系図も集まっ

庶物類纂

庶物類纂(しょぶつるいさん)は江戸時代中期の本草学者で加賀金沢藩の儒医であった稲生若水および、その弟子であった丹羽正伯らが編纂した博物書。26属1054巻。 古今の漢籍などから植物、動物、鉱物、薬物などの記事を調査し、その3590種の記事をそれぞれの種類・分類を精査し、26属に分けて分類後、再編集を

元和姓纂

姓族系録』200巻(714年)などの書名が知られるが、いずれも早く滅んだ。 輯佚書ではあるものの、『元和姓纂』は現存する唐代の姓氏辞典として、現在も姓氏に関する書物の中でしばしば参照される。 林宝の序文によると、国姓である李氏を最初に置き、それ以外の姓は韻書の順に並べられていたようである。 各姓

楊纂 (仇池)

楊 纂(よう さん、生没年不詳)は、前仇池の第8代君主。父は楊世。楊徳とも記載される。 370年、父の楊世が亡くなると後を継いだが、叔父の楊統はこれを認めずに自立したので、前仇池は分裂した。東晋へ使者を派遣し、簡文帝より平羌校尉・秦州刺史に任じられ、仇池公に奉じられた。 また、即位してすぐに前秦と国交を断絶した。

日本書紀纂疏

傾向や、兼良の神道観がうかがえる点も特色となっている。 本書において兼良は、儒教思想に仏説を混じえ、父経嗣や卜部兼熈の学統を受け継ぎながらも独自の神儒仏3教一致論を展開する。また、当時建仁寺の僧、円月が提唱した皇室の祖先を呉の太伯に求める説に対して厳しい批判を下し、日本学者としての意気と見識も示している。