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รายละเอียดคำ

藤原為光

正月28日:従三位、権中納言。7月1日:兼中宮大夫(中宮・藤原媓子) 天延3年(975年) 正月26日:中納言、大夫如元 天延4年(976年) 正月7日:正三位(不次叙云々、越済時文範) 貞元2年(977年) 3月26日:従二位。4月24日:大納言、4月25日:大夫如元 貞元3年(978年) 10月17日:兼按察使

คำที่เกี่ยวข้อง

藤原為盛

に馬を2匹献上している。六位蔵人を経て、寛弘8年(1011年)までに巡爵により従五位下に叙せられる。長和元年(1012年)藤原実頼忌日には五位として入礼。長和2年(1013年)以前に加賀守を務めていた。 その後、三条朝から後一条朝前半にかけて長く散位となる。長元元年(1028年)になって越前守に任ぜ

藤原為忠

寂然)兄弟の父。 白河院の近臣。官位こそ高くなかったが、祖父・知綱は白河院の乳母子、父・知信は郁芳門院の乳母子、母は後三条天皇の落胤とされる藤原有佐の娘といった天皇家との深い関係や、安芸守・三河守・丹後守など地方官を歴任して蓄えた豊かな財力を背景に隠然たる

藤原為家

を行い、伯父・西園寺公経の猶子となる。若い頃は蹴鞠に熱中し、その縁で同好の順徳天皇に目を掛けられるようになった。ところが承久3年(1221年)の承久の乱の戦後処理で順徳院が佐渡に配流されると、その供奉者の一人として院から同行を希望された為家は掌を返すようにこれを

藤原為隆

刻薨去。臨終は『安住正念』と評された。享年61。 『後拾遺往生伝』によれば毎回朝議にあったとされる。さらに、資性倜儻(才気があり優れている)、才器軼人(才器で優れている)、職事三代、可謂独歩(職事三代独歩と謂うべし)と評されている。 『公卿補任』による。 応徳3年(1086年) 11月21日:六位蔵人

藤原為時

^ 『日本紀略』後編十 ^ 『今昔物語集』巻24 ^ 久保田孝夫「越前守藤原為時の補任」(『同志社国文学』16号、1980年) ^ 『類聚符宣抄』第8,任符請印 ^ a b 『日本紀略』 ^ 『小右記』 ^ a b 『権記』 ^ 『大間書』 ^ a b 『弁官補任』 ^ 『小右記』長和5年5月1日条

藤原為雅

藤原 為雅(ふじわら の ためまさ)は、平安時代中期の貴族。藤原北家長良流、中納言・藤原文範の次男。官位は正四位下・備中守。 円融朝末から花山朝、一条朝初頭にかけて丹波守・伊予守・備中守等の受領を歴任し、位階は正四位下に至る。長保4年(1002年)以前に卒去。 天元5年(982年) 正月3日:見丹波守四位

藤原為房

延久5年(1073年)従五位下に叙爵し、承保2年(1075年)遠江守に任官する。のち、中宮・藤原賢子の中宮少/大進を経て、永保3年(1083年)左衛門権佐(検非違使佐)、永保4年(1084年)五位蔵人、応徳3年(1086年)権左少弁と次々に要職に任ぜられ三事兼帯の栄誉に浴した。またその傍らで、摂関家(師実・師通・忠実)の家司も務めている。

藤原為任

筆頭である藤原広業を推挙しようとする。ここで、広業の後任である為任が不与解由状の提出を拒んだことから(本任放還を果たしていない)広業を任命する事ができなくなり、やむなく五位の東宮学士・大江挙周が博士の任にあたることになったが、道長は為任のこの仕打ちを深く恨んだという。

藤原為輔

京官を兼ねる。安和2年(969年)右中弁に遷ると、天禄元年(970年)従四位上・左中弁、天禄2年(971年)右大弁と円融朝では弁官を務めながら引き続き順調に昇進し、天延3年(975年)参議に任ぜられて公卿に列した。 貞元2年(977年)正四位下に昇叙され、翌貞元3年(978年)には左大弁に進む。そ

藤原高光

藤原 高光(ふじわら の たかみつ)は、平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の八男。官位は従五位上・右近衛少将。三十六歌仙の一人。 天暦2年(948年)昇殿を許されると、まもなく父の藤原師輔とともに参内し、村上天皇の前で『文選』『三都賦序』を暗誦して天皇を感嘆させた。天暦9年(955

藤原光房

藤原 光房(ふじわら の みつふさ)は、平安時代後期の貴族。藤原北家勧修寺流、参議・藤原為隆の三男。官位は正四位下・権右中弁。伊豆弁を号す。 元永3年(1120年)に正六位上で大膳亮に任ぜられた後、白河院政期末に摂津守を務める。保延4年(1138年)伊賀守の任にあった際、光房が築造した土御門殿に崇

藤原顕光

は儀式進行の手違いや失態が多く、またも公卿らの嘲笑を買い、実資は『小右記』に「(失態を)いちいち書いていては筆がすり切れる」と書き残し、道長も「至愚之又至愚也」と罵倒したと聞き記している。この時代は典礼儀式が最も重んじられ、それをこなせない顕光は無能者とされ公家社会から軽んじられたとされる。ただし、

藤原惟光

惟光、惟光の朝臣、大夫 第05帖 若紫 惟光、惟光の朝臣、大夫 第07帖 紅葉賀 惟光 第08帖 花宴 惟光 第09帖 葵 惟光 第11帖 花散里 惟光 第12帖 須磨 民部大輔、大輔 第13帖 明石 惟光 第14帖 澪標 惟光 第15帖 蓬生 惟光 第18帖 松風 惟光の朝臣 第21帖 少女 惟光の朝臣、摂津守、左京大夫、朝臣、父主

藤原光隆

『平家物語』巻八「猫間」においては、寿永2年(1183年)に源義仲を訪問した光隆が、義仲によって愚弄される逸話が紹介されている。義仲のやかたで光隆は、高く盛り付けられた飯や三種のおかず、平茸の汁などの多量の食事を出され、椀が汚らしいのに辟易したところ、「それは仏事用の椀だ」と説明されて、仕方なく少しだけ口にしたところ、義仲に「猫殿は小食

藤原光頼

た平治の乱に際しては、甥に当たる藤原信頼に与同して軍事行動を起こした弟の惟方を叱責し、その離反の遠因を作ったとされる。同書の「光頼卿参内の事」の段には、得意絶頂の信頼に対して一歩も臆することなく堂々と正論を述べる光頼と、その態度に面目を失う信頼の姿とが、対照的な筆致で描き出されている。 晩年は出家して桂の里に退隠した。

藤原朝光

大君や馬内侍といった同時代の女流歌人達と恋愛関係を持ったことでも知られる。家集に『朝光集』を残している。 当初、重明親王の娘を室としたがのち離縁し、親くらい年上で年齢の離れた枇杷大納言源延光の未亡人(藤原敦忠の娘)を後室とした。この理由について、前室が貧乏であった一方で後室が裕福であったとする話と、

藤原成光

嘉応2年(1170年)6月、太政大臣・藤原忠雅が上表する際には、上表文を起草している。治承2年(1178年)閏6月、九条兼実と文談する。兼実はこの時に成光を「文道の故実を知り詩心を得たる人」と評した。治承4年(1180年)7月18日に70歳で卒去。 父:藤原敦光 母:大中臣輔清の娘

藤原範光

藤原範季の娘 長男:藤原範朝(1178-1237) 二男:藤原範基(1179-1226) 生母不明の子女 男子:光実 男子:成範 男子:清範 男子:承性 男子:円憲 男子:静範 男子:遍兼 男子:能範 女子:兼子 - 外山良平室、高実母 女子:憲子(岡前別当三位)(?-1239) - 源有雅室、順徳天皇乳母

藤原光能

能の許に伊豆国の源頼朝と面会した文覚が訪れ、頼朝のために後白河法皇に取り次いで平清盛追討の院宣を出させるように迫ったとされている。『愚管抄』はこれを妄説として否定するが、『平家物語』などにおいては名場面の1つとして採用されている。 養和元年(1181年)に参議に復して従三位に進み、翌年には左兵衛督・