「孤児の母」田内千鶴子さんとは
地元の学校を卒業して音楽教師をしていた田内さんは、児童福祉施設「共生園」のことを知り、歌を教えるボランティアを始めます。
その後、千鶴子さんは、施設を運営していたユン・チホ(尹致浩)さんと結婚し、夫婦で孤児たちの面倒を見るようになりました。
夫は1950年に勃発した朝鮮戦争による動乱で行方不明になります。
しかし、田内さんは苦しい生計や反日感情の中、施設の運営を続け、3000人を超える孤児を育て、1963年には外国人女性として初めて韓国の文化勲章を受章しました。
韓国名のユン・ハクチャ(尹鶴子)で暮らした田口さんは、1968年に56歳で亡くなりましたが、市民葬として行われた葬儀には、およそ3万人の市民が集まり、「孤児の母」に哀悼の意をささげました。
田内さんの業績については、1990年代に日韓共同で映画が制作され、両国の多くの国民に感動を与えました。