日野原さんの「葬送・告別式」は29日午後、東京・港区の青山葬儀所で営まれ、医療関係者や親交のあった政財界などの関係者、それに日野原さんを慕う高齢者などおよそ4000人が参列しました。祭壇には、にこやかにほほえんだ日野原さんの遺影の周りに、穏やかで朗らかな人柄をイメージした白やピンク色の花が飾られ、平成17年に受章した文化勲章も供えられました。
聖路加国際病院の福井次矢院長が「たぐいまれな努力家で、好奇心に富み、新しいことには子どものような興味を示される姿が印象的でした。105歳という長寿を全うし、残された業績がいかに膨大でも、さらにやり遂げたいことが山積していたはずで、哀悼の意が尽きることはありません」と恩師の死を悼みました。
そして日野原さんと親交があった韓国のテノール歌手、べー・チェチョルさんが、日野原さんが作った「愛のうた」という曲を披露したあと、参列者全員で日野原さんが好きだった「故郷」を合唱しました。
式場には駐車場にテントを設けるなどして1600人分の席が用意されましたが、会場の外にも献花を待つ長い列ができ、参列者は順番に遺影に向かって白いカーネーションを手向け、日野原さんをしのんでいました。
多くの若者も励まされ
日野原さんの生き方や言葉は若い人たちにも大きな影響を与えました。
が日野原さんを知ったのは高校生の時。偶然、テレビで講演を目にしたのがきっかけでした。岩手県出身の小原さんは看護師を目指していた6年前、東日本大震災による津波で大好きだった祖母を亡くしました。精神的に追い詰められて夢を諦めようと思った時に、心に浮かんだのが命について語っていた日野原さんの言葉でした。このときの心境について小原さんは「高齢になっても医師として、命と向き合い続けている日野原さんがいるのに、若い私が夢を諦めてはいけないと思った」と振り返りました。ノートに書き記していた日野原さんの言葉を繰り返し読み励まされたという小原さん。勉強を続けて看護師となる夢をかなえました。
今、小原さんが看護師として心がけていること、それは患者に寄り添う姿勢です。患者の手を握ったり目線を合わせて話したりすること。いずれも日野原さんから学んだといいます。
小原さんは「亡くなられたのは残念だが、日野原さんの医師としての活動の一つ一つが今の私たちの医療につながっている。日野原さんの言葉や活動を今後も学んでいくと同時に、次の世代にも伝えたい」と話していました。
日野原さんと交流し何事にも挑戦する姿勢を学んだという高校生もいます。吉村翔さん(17)は日野原さんが名誉院長だった聖路加国際病院で生まれました。予定日より早く生まれ、脳に障がいが残った翔さん。母親の由佳里さんは翔さんの育児に当たり、日野原さんの「どう生まれたかではなく、どう生きるかが大切だ」という言葉が大きな支えになったといいます。翔さん自身が日野原さんに強くひかれたきっかけは、幼稚園児の時に手にした『いのちのおはなし』という日野原さんが書いた絵本でした。「生まれてきたことはそれだけですばらしい」、「1日1日を精いっぱい生きること」、命の大切さ、生きることのすばらしさを学んだといいます。日野原さんの言葉を支えに、翔さんは韓国語や書道に挑戦。去年、日野原さんが企画した日韓友好のコンサートに参加し、韓国のテノール歌手に韓国語でメッセージを伝えるとともに、「平和な世界」という書を贈りました。
翔さんは「日野原先生のように人のために役立つ活動をしていきたい。日野原先生が大切にしてきた命や平和というものを引き継いでいきたいと思います」と話していました。
告別式前に皇后さまが弔問
告別式の会場には日野原さんと長年親交があった皇后さまが訪れて、親族に哀悼の気持ちを伝えられました。
皇后さまは告別式が始まる1時間前の29日正午ごろ青山葬儀所に到着し、日野原さんの長男の明夫さんと言葉を交わされました。その後、祭壇の前に進むと、日野原さんの遺影に一礼し親族に哀悼の気持ちを伝えられたということです。
皇后さまは日野原さんと皇太子妃の時代から長年にわたる親交があり、去年7月には日野原さんがプロデュースしたコンサートに足を運ばれています。皇后さまは親族に「日野原さんは皆さんのために立派なお仕事をしてくださいました」などと話されていたということです。