天皇皇后両陛下と
長女の
愛子さまは、
12日から
被爆地、
長崎を
訪問し、
戦後80年にあたって
戦没者を
慰霊されます。
天皇、皇后兩陛下與長女愛子公主,將於12日起訪問遭受原子彈轟炸的長崎,值此戰後80年之際,將為戰亡者舉行慰靈活動。
両陛下は、14日に長崎県佐世保市で開かれる「国民文化祭」と「全国障害者芸術・文化祭」の開会式に出席するため、12日から3日間の日程で、長崎県を訪問されます。
兩陛下將於12日起,為期三天訪問長崎縣,以出席14日在長崎縣佐世保市舉行的「國民文化祭」及「全國身心障礙者藝術・文化祭」的開幕式。
開会式に先立ち、両陛下は12日、長女の愛子さまとともに、長崎市の平和公園を訪ね、爆心地を示す石碑の前に設けられ、20万1942人の原爆死没者名簿が納められた奉安箱に花を供えて、犠牲者の霊を慰められます。
在開幕式之前,天皇與皇后於12日攜長女愛子公主一同參訪長崎市的和平公園,在標示爆心地的石碑前,向安放著201,942名原子彈罹難者名冊的奉安箱獻花,為犧牲者的靈魂祈福。
そして原爆資料館で高齢の被爆者や、本人に代わって被爆の体験を語り継ぐ、若い世代の伝承者と懇談されます。
然後,您將在原子彈資料館與年長的被爆者,以及代表本人傳承被爆體驗的年輕一代傳承者進行懇談。
13日は、被爆したお年寄りたちが暮らす市内の養護ホームを訪問し、入所者と懇談されます。
13日將會拜訪市內居住著被爆老人們的養護之家,並與入住者進行懇談。
宮内庁によりますと、両陛下の長崎訪問は天皇陛下の即位後初めてで、愛子さまは、初めて長崎県を訪問されるということです。
根據宮內廳的說法,兩陛下此次訪問長崎是天皇陛下即位後的首次,而愛子公主則是首次造訪長崎縣。
両陛下は戦後80年にあたることし、「玉砕の島」の1つ、小笠原諸島の硫黄島や、激しい地上戦が行われ、20万人以上が犠牲になった沖縄、それに被爆地、広島といった先の大戦の象徴的な地域を訪問されました。
兩陛下在戰後80年的今年,造訪了「玉碎之島」之一的小笠原群島的硫磺島、曾發生激烈地面戰鬥、超過20萬人犧牲的沖繩,以及遭受原子彈轟炸的廣島等,這些具有象徵意義的二戰地區。
7月のモンゴル訪問では、敗戦後、旧ソビエトによって抑留されて過酷な労働などのために命を落とした多くの日本人を慰霊されました。
在七月的蒙古訪問中,對於戰敗後被舊蘇聯拘留,並因嚴酷勞動等原因喪生的眾多日本人進行了慰靈。
中村キクヨさん(101) 爆心地から5。8キロの自宅で被爆
中村キクヨさん(101)は、21歳のときに爆心地から5。在自宅距離爆心地8公里的中村菊代女士(101歲),在21歲時經歷了原子彈爆炸。
8キロ離れた長崎市小瀬戸町の自宅で洗濯物を干しているときに被爆しました。
當我在距離8公里遠的長崎市小瀨戶町的家裡晾曬衣服時遭遇了原子彈爆炸。
中村さんに大きなけがはありませんでしたが、その日の夕方、自宅近くの砂浜には、ひどいけがをした学生たちが寝かされていて、水を求めながら亡くなっていった姿が今も目に焼き付いているといいます。
中村先生雖然沒有受到重大的傷害,但據說當天下午,在他家附近的沙灘上,重傷的學生們被安置躺著,他至今仍難以忘懷那些學生一邊渴求著水一邊去世的情景。
中村さんは、1967年に結成された被爆者団体の1つ、「長崎県被爆者手帳友の会」の立ち上げに関わり、中心メンバーとして被爆者への支援の拡充や核兵器廃絶を求めてきました。
中村先生參與了1967年成立的被爆者團體之一「長崎縣被爆者手冊之友會」的創立,作為核心成員致力於擴大對被爆者的支援並呼籲廢除核武器。
そして、2006年の平和祈念式典では、「平和への誓い」を被爆者代表として述べ、白血病で次男を亡くした胸の内を、初めて公にしながら、戦争や原爆がもたらす悲惨さを訴えました。
在2006年的和平祈念典禮上,她作為被爆者代表發表了「對和平的誓言」,首次公開表露因白血病失去次子的心情,並訴說了戰爭與原子彈帶來的悲慘。
100歳を超えたあとも、毎月9日の月命日には、長崎市の平和公園にある鐘を、平和を願って鳴らす活動に取り組んでいて、天候や体調によって参加することが難しいときには、自宅で小さな鐘を鳴らして、原爆で亡くなった人たちに思いを寄せているということです。
即使在超過一百歲之後,每個月的9日月忌,他也會在長崎市和平公園敲響鐘聲,祈願和平。即使因天氣或身體狀況難以前往參加時,他也會在家中敲響小鐘,追思在原子彈爆炸中罹難的人們。
中村さんは、12日に両陛下や愛子さまと懇談する予定です。
中村先生預計於12日與天皇、皇后陛下以及愛子公主進行懇談。
みずからが経験した被爆の実態を伝え、改めて平和の大切さに関心が向くことを願っています。
我希望能夠傳達自己親身經歷的被爆實況,並再次喚起大家對和平重要性的關注。
中村キクヨさんは「私でいいのだろうかと、びっくりしましたが、今まで一生懸命、被爆者として運動を続けてきたご褒美と思って喜んでいます。
中村菊代女士說:「雖然我很驚訝自己是否真的可以,但我很高興,覺得這是作為原子彈受害者一直努力參與運動所得到的獎賞。」
天皇陛下に
話をきいてもらい、
戦争はだめだ、
平和は
大切だとお
考えくだされば、
これにこしたことはありません」と
話していました。
如果能讓天皇陛下聽我們說話,並且陛下能認為「戰爭是不可以的,和平是很重要的」,那就再好不過了。
松山咲さん「交流証言者」
長崎県諫早市の大学3年生、松山咲さん(20)は、被爆者に代わって被爆の体験を後世に伝える「交流証言者」の活動を中学2年生のときに始めました。
松山咲女士「交流證言者」長崎縣諫早市的大學三年級學生松山咲女士(20歲),自國中二年級時開始擔任「交流證言者」,代替被爆者向後世傳達被爆的經歷。
子どものころから原爆や平和に関心をもっていた松山さんは、被爆者の高齢化で、戦争の記憶の継承が難しくなっていることを知り、「交流証言者」になることを目指すようになりました。
從小就對原子彈和和平感興趣的松山先生,了解到隨著被爆者年齡漸長,戰爭記憶的傳承變得越來越困難,因此開始以成為「交流見證者」為目標。
その中で、長崎で6歳のときに被爆した池田道明さんと出会い、その人間性にひかれて、体験を受け継ぐことを決めました。
在那之中,我遇到了在長崎六歲時遭受原子彈爆炸的池田道明先生,被他的人格所吸引,決定繼承他的經歷。
松山さんは、池田さんの被爆体験がより具体的に伝わるようにと、何度も池田さんと会って聞き取りを重ねながら、原稿を完成させました。
松山先生為了讓池田先生的被爆經歷能更具體地傳達出來,多次與池田先生見面進行訪談,並在反覆聽取意見後完成了稿件。
また、小学生などに講話するときには、クイズを出すなどして、平和を身近に感じてもらう工夫をしています。
此外,在對小學生等進行演講時,我們會透過出問答題等方式,讓他們能更貼近地感受到和平。
松山さんは、今回の懇談を通じて、若い世代でも被爆の体験をつないでいけることを知ってもらい、平和について考えるハードルを下げたいと考えています。
松山先生希望通過這次的座談會,讓年輕一代也能夠傳承被爆的經驗,並降低大家思考和平問題的門檻。
松山咲さんは「短い時間ではありますが、楽しみながら、自分の活動をアピールしたり、平和への思いを伝えたりしたいと思います。
雖然時間很短,但松山咲小姐表示:「我希望能一邊享受這段時光,一邊宣傳自己的活動,也想傳達我對和平的想法。」
私と
天皇陛下との
懇談を
見た
人が、
活動を
知ってくれたり、
自分にも
できるかもしれないとか、
平和とは
何だろうとか
考えてくれたりするような
きっかけになる
時間にしていきたいと
思っています」と
話していました。
我希望能讓看到我與天皇陛下懇談的人,藉此機會了解我的活動,或者讓他們思考自己也許也能做到,甚至思考什麼是和平,成為這樣的一段時間。
濱田尚平さん「青少年ピースボランティア」
長崎県長与町の大学2年生、濱田尚平さんは、原爆の恐ろしさや平和の大切さを、学びながら発信する「青少年ピースボランティア」として活動しています。
濱田尚平先生「青少年和平志工」是長崎縣長與町的大學二年級生,濱田尚平先生作為「青少年和平志工」,一邊學習原子彈的可怕與和平的重要性,一邊向外發聲並參與相關活動。
高校生のころにボランティアの一員となり、県内外で被爆者の声を聞いたり、長崎市の平和公園で被爆体験を伝えるガイドをしたりしてきました。
在高中時期,我成為志工的一員,曾在縣內外聆聽原子彈受害者的心聲,也曾在長崎市的和平公園擔任傳達被爆經驗的導覽員。
また、ことし4月には、長崎の若者の代表として、NPT=核拡散防止条約の再検討会議の準備委員会にあわせてニューヨークの国連本部に派遣され、各国の担当者や学生などと、核兵器に頼らない安全保障政策などについて議論しました。
此外,今年四月,作為長崎年輕人的代表,被派遣到紐約的聯合國總部,參加配合NPT(核不擴散條約)審議會議的準備委員會,並與各國負責人及學生等,討論了不依賴核武器的安全保障政策等議題。
濱田さんは、今回の懇談を通じて、被爆者のほかにも、原爆によってもたらされた被害を語り継ぎ、核兵器廃絶に向けた道筋を探る若者たちがいることを広く知ってほしいと考えています。
濱田先生希望透過這次的座談會,讓更多人知道除了被爆者之外,還有年輕人正在傳承原子彈帶來的災難經驗,並探索邁向廢除核武器之路的方法。
濱田さんは「長崎、広島で起こったことを、世界のどこでも二度と起こしてはならない。
濱田先生說:「長崎、廣島發生的事情,絕不能再讓它在世界上的任何地方發生第二次。」
やはり諦めてはいけないというのが
一番大きいと
思っていて、
被爆者しか
伝えられないと
割り
切ってしまえば、
必ず
被爆の
歴史は
風化して
いく。
果然我認為最重要的是不能輕易放棄,如果認為只有被爆者才能傳達這段歷史,那麼被爆的歷史必然會逐漸被遺忘。
長崎の
被爆の
話をするのは、
決して
経験者だけではないということ、
私たちが
しっかりと
語り
継ぐ
活動を
行っているということを
伝えていけたらいいと
思う」と
話していました。
能夠傳達「講述長崎被爆的故事,並不僅僅是經歷過的人才能做的事,我們也在認真地進行著將這些經歷傳承下去的活動」,我認為這樣就很好了。