言語げんご思考しこう規定きてい過程かていかんが行為こうい本質ほんしつさぐ

Easy Japanese news
N1 Oct 27, 2025 03:10 271
Furigana Traduction
Journal japonais
わたしたちはあたまなかで「かんがえる」とき、けっして論文ろんぶんのように整然せいぜんとした筋道すじみち沿って思考しこうしているわけではない。たとえばわたし評論ひょうろんさい経験けいけんかえってみても、論旨ろんし核心かくしんとなる直感ちょっかんや、文章ぶんしょう全体ぜんたい印象いんしょう決定けっていづけるフレーズがふとひらめいた瞬間しゅんかんに、「あ、これならける」とおもたずにはいられない。つまり、その時点じてんあたまかんでいるのは、あくまで断片的だんぺんてきなイメージやおおまかな展望てんぼうにすぎないのである。その点在てんざい的な断片だんぺんどうしを、全体ぜんたいとして説得力せっとくりょくのあるながれへとむすびつけていく作業さぎょうこそが、「く」という行為こうい本質ほんしつにほかならない。だが、ながれのなめらかさばかりに集中しゅうちゅうしすぎると、もとの目的もくてきから逸脱いつだつせざるをないこともすくなくない。こうとしていた方向ほうこうとはことなる展開てんかいが、言葉ことばながれにきずられるようにしてしょうじてしまうのだ。ひとかならずしも、当初とうしょ意図いとしたことを正確せいかくあらわせるとはかぎらない。むしろ、かさねるようにしていくうちに、最初さいしょおもいもよらなかったことを、らずらずのうちにいてしまうことがある。そして不思議ふしぎなことに、げたあとになって「そうか、自分じぶんはこうかんがえていたのか」とづかされることもすくなくない。つまり、思考しこうとは、言葉ことばとおしてはじめて輪郭りんかく動的どうてき過程かていにほかならないのである。わたしたちの意識いしきは、言葉ことばとイメージのあみなかえずただよっている。そこにしょうじた断片的だんぺんてき言葉ことばぶんとして定着ていちゃくしたとき、はじめて「かんがえ」とべるものがまれる。
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