本能寺の
変のあと
混乱していた
京都を
治めていた
豊臣秀吉が、
治安を
回復するために
進めてきた
略奪品の
返却を
諦める
内容を
記した
書状が、
新たに
見つかり、
調査に
当たった
専門家は「
織田信長亡きあとの
秀吉が
試行錯誤をしていたことがわかる
貴重な
発見だ」と
指摘しています。この
書状は、
愛媛県に
住む
男性の
家に
伝わっていたもので、
東京大学史料編纂所の
村井祐樹准教授が
25日、
実物を
調査しました。
その結果、書状は、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の2か月ほどあとに、当時京都を治めていた豊臣秀吉が家臣に宛てて出したもので、秀吉が直筆で花押と呼ばれるサインを記していることが確認できたということです。
村井准教授によりますと、本能寺の変の直後の京都では明智光秀の軍勢が略奪を行ったうえ、その後、元の持ち主に返す作業に関わっていた秀吉の家臣も自分のものなどにしていたということです。
こうした状況のなか、今回見つかった書状には「略奪されたものには、今後一切関知しない」と記され、秀吉が京都の治安を回復するために進めてきた略奪品の返却を途中で諦めていたことが明らかになりました。
一方、この記述のあとには信長を示す「上様」という言葉を使って「上様からもらったものに関しては、証拠がはっきりしていれば元の持ち主に戻す」とも記され、秀吉が信長を特別扱いしていたことがうかがえます。
村井准教授は「秀吉の全国統一までの道のりは決して一本道ではなく、試行錯誤の末に政権を確立したことがよくわかる。また本能寺の変のあとも信長の存在が無視できなかったこともわかり、貴重な発見だ」と話しています。