天皇皇后両陛下は7
日、
太平洋戦争末期の
激戦地、
小笠原諸島の
硫黄島を
訪問し、
戦後80
年に当たって戦没者を
慰霊されます
天皇皇后两陛下于7日访问了太平洋战争末期的激战地——小笠原群岛的硫黄岛,并在战后80周年之际祭奠了阵亡者。
硫黄島は太平洋戦争中、国内では沖縄とともに激しい地上戦が行われた島で、日本側はおよそ2万1900人が戦死し、アメリカ側もおよそ6800人が戦死しました
硫磺岛是在太平洋战争期间,与冲绳一起进行了激烈地面战的岛屿,日本方面约有21900人阵亡,美国方面约有6800人阵亡。
それから80年
両陛下は、
政府専用機で
羽田空港を
出発して、
午後、
およそ1200
キロ離れた
硫黄島を
初めて訪問されます
両陛下乘坐政府专机从羽田机场出发,下午将首次访问距离约1200公里的硫黄岛。
そして、上皇ご夫妻が戦後50年を翌年に控えた平成6年に訪ねられた旧日本軍の戦没者の慰霊碑と日米両軍の犠牲者の慰霊碑で、花を供えたあと水をかけて火山島の激戦で飢えと渇きに苦しんだ犠牲者の霊を慰められます
(在平成6年,时任天皇夫妇在战后50周年前夕,访问了旧日本军的阵亡者纪念碑和日美两军的牺牲者纪念碑,献上鲜花后,洒水以安抚在火山岛激战中饥渴而亡的牺牲者的灵魂。)
硫黄島では戦時下に島民のほとんどが強制的に疎開させられましたが、軍属として徴用されるなどした男性およそ100人が残り守備隊と運命をともにしていて、両陛下は、戦闘で命を落とした島民などの慰霊塔が建てられている墓地公園も訪ねて花を供えて拝礼されます
硫磺岛在战争期间,岛上的大多数居民被强制疏散,但约有100名被征用为军属的男性留下来与守备队共命运,天皇和皇后还访问了为战斗中牺牲的岛民等建造的慰灵塔的墓地公园,并献花致敬。
さらに、自衛隊基地で旧日本軍の戦没者の遺族や元島民の子孫らの団体の関係者と懇談し、夜、皇居に戻られます
此外,还与自卫队基地的旧日本军阵亡者遗属及原岛民的后裔等团体的相关人员进行座谈,晚上返回皇居。
ことしは戦没者の慰霊などのため、広島、長崎、沖縄も訪問する見通しで、7日は、戦後80年に当たって先の大戦の象徴的な地域を巡られる中で最初の訪問となります
今年预计也将访问广岛、长崎和冲绳,以悼念战争死难者等,7日将在战后80年之际,作为象征性地区巡访的首次访问。
守備隊司令官の孫 “伝えていかなければ”
両陛下の今回の訪問に、戦没者の遺族は特別な思いを寄せています
<br>守备队司令官的孙子 “必须传承下去”<br>对于天皇和皇后的此次访问,阵亡者的遗属寄予了特别的情感
その1人、東京 昭島市に住む栗林快枝さん(66)は、陸軍中将として硫黄島の守備隊を率いて戦い壮烈な最期を遂げた栗林忠道さんの孫です
其中一人,住在东京昭岛市的栗林快枝女士(66岁),是作为陆军中将率领硫磺岛守备队壮烈牺牲的栗林忠道先生的孙女。
栗林中将は、守備隊の司令官として硫黄島に赴任した昭和19年6月から連絡が途絶えるまでの8か月間一度も島を出ることはなく、この間、本土の家族に手紙を送り続けていました
栗林中将作为守备队的司令官,自昭和19年6月赴任硫磺岛起,直至与外界失去联系的8个月间,从未离开过岛,并在此期间持续给本土的家人写信。
祖母と父から受け継ぎ大切に保管している41通の手紙のうち最初の手紙には、他人に見せたりしゃべったりしてはならないと前置きしたあと、高温多湿で水や食料が乏しい島での過酷な生活について「不毛の原野で穴居生活している訳で、考え様に依っては地獄の生活で生まれて以来初めてです」などと記されています
在从祖母和父亲那里继承并珍藏的41封信中,第一封信开头写着,不得向他人展示或谈论,随后描述了在高温多湿、缺乏水和食物的岛上艰苦生活的状况,信中写道:“在不毛的原野上过着穴居生活,从某种意义上来说,这是自出生以来第一次体验到地狱般的生活。”
また、硫黄島が敵に取られれば本土が空襲されるため、自分や部下は生還を期せず戦い抜くとしたうえで、残される妻子を気遣うことばがつづられています
如果硫磺岛被敌人占领,本土将遭到空袭,因此他和部下都不期望生还而战斗到底,同时还表达了对留下的妻子和孩子的关心。
祖母や父は生前、戦争や栗林中将について語ることはほとんどなかったということで、快枝さんは「2人ともつらかったので、あえて話さなかったのだと思います
<br><br>据说祖母和父亲在世时几乎没有谈论过战争和栗林中将,快枝先生认为“他们两人都很痛苦,所以故意不提”。
ただ、
小笠原諸島が
返還された
時に
祖父が『
今、
帰ったよ』と
言って
枕元に
立っていたと
祖母が
話していたのは
鮮明に
覚えています」と
振り返ります
“不过,我清楚地记得,当小笠原群岛被归还时,祖母说祖父站在她的枕边对她说‘我回来了’。”
アメリカ軍上陸のひと月ほど前の日付の手紙には「遺骨は帰らぬだろうから」などと書かれていましたが、祖母が塗りつぶしてしまったため、父親がのちに読み取って書き添えたということで、快枝さんは「死というのはもちろん悲しいことだが、死んだ後遺骨も帰らないというのは2重3重につらい思いをしたのだと思います
美国军队登陆前一个月左右日期的信中写道:“遗骨可能不会归还”,但由于祖母将其涂抹掉,父亲后来才解读并补充写上。快枝先生表示:“死亡当然是悲伤的事情,但死后遗骨也不能归还,这让人感到双重甚至三重的痛苦。”
半数に当たる1
万人以上の
遺骨が
本土に
戻れていないので、
滑走路の
下をどうするか
など大変なことも
あると
思いますが、1
人でも多く
帰ってきてほしいと
強く
思っています」と
語りました
超过一半,相当于一万多具遗骨尚未能返回本土,虽然在跑道下方等方面可能会遇到困难,但我强烈希望能有更多的人回来。
そのうえで、今回の両陛下の訪問について「大変な激戦の中で亡くなられた方々の供養になると感じますし、英霊の皆さんが安らかにお眠りいただきますよう心から祈っていただければありがたいと思います
在此基础上,对于此次两陛下的访问,我感到这将是对在激烈战斗中去世的人们的供养,并衷心祈愿英灵们能够安息。
とにかく戦争をしてはいけないということを
伝えていかなければならない
自分を
含めた
戦争を
知らない
世代に、
戦争は
絶対にしてはいけないのだという
気持ちになってもらいたいです」と
話していました
我希望包括我自己在内的不知道战争的一代人,都能有一种绝对不能进行战争的心情。