「
東京大空襲・
戦災資料センター」が
全国の
自治体などの
記録を
基にまとめたところ、
太平洋戦争末期の
アメリカ軍の
空襲による
犠牲者は
当時の800を
超える市町村で
合わせて20
万人以上に
上るとされています。
しかし、
遺族や
空襲で
負傷した
民間の
被害者は
戦後、
国の
補償の
対象とならず、
今も
救済を
求める声が
上がっています。
浜松市中区の
木津正男さん(93)は
昭和20
年6月18
日、18
歳の
時に
空襲の
焼い
弾が
自宅に
直撃し、
腕や
背中などに
大やけどを
負いました。
木津さんは「瞬間的に『ボン』という音を聞いて気絶してしまった。熱くて目を開いて見たら手が両方燃えていた」と当時を振り返ります。
やけどの後遺症が残った木津さんは戦後、国の補償とならなかった民間の空襲被害者の救済を求めて全国の被害者とともに活動を続け、浜松市や名古屋市など一部の自治体で見舞い金を支給する制度が設けられました。
しかし国と雇用関係にあった軍人や軍属などと異なり、民間の空襲被害者には個別の補償は行わないという国の方針は変わらないままでした。
戦後75年がたち、活動をともにしてきた全国の空襲被害者も相次いで亡くなり、木津さんが会長を務めた浜松市の被害者団体も6年前に解散しました。
木津さんは市民が救済されない戦争の悲惨さを伝えたいと、一人でみずからの体験や思いを書き残す活動を続けています。
木津さんは「一人でもいいので後世に残したい。戦争とは残酷なもので、それを訴えるために今も活動している。僕にはいつまでたっても終戦記念日はない。その気持ちは当事者じゃないとわからないと思う」と話し、民間の空襲被害者の救済を訴えています。