これは、終戦後間もないころ、友人から聞いた話である。
彼は、だいたいが慎重な運転をする男だったが、ある日のこと、横丁から突然、そば屋の青年が自転車で飛び出してきて、彼の自動車と衝突してしまった。
他原本是一位非常謹慎的司機,但有一天,一位賣蕎麥麵的年輕人突然騎著自行車從小路衝出來,撞上了他的車。
幸い青年にケガはなかったが、自転車はメチャメチャ。
幸運的是,那位年輕人沒有受傷,但自行車卻嚴重損壞了。
さっそくおおぜいの人垣ができ、警察官もやってきた。
友人が、「私には責任はない。
その青年の不注意だ」と主張すると、その話を聞いた警察官は、とにかく五千円払えば立ち去ってもよい、と言ったという。
「那是因為那位年輕人的不小心。」警察聽到後立刻這麼說。「總之,如果你付五千日圓就可以回去了。」
友人が、「ちょっと待ってください。
私には落度がないのに、なぜ罰金を……」と問い返すと、彼は「いや罰金じゃない。
「我又沒有做錯,為什麼還要繳罰款呢……」我問道,警察則回答:「不,這不是罰款。」
青年がかわいそうじゃありませんか」と答えた。
その青年はおそらく店にいられなくなるだろう、だからせめてメチャメチャになった自転車の代金の一部だけでも、と警察官は考えたのだろう。
或許警察認為那位年輕人可能無法再在店裡工作了,所以至少應該賠償一部分損壞自行車的價值。
悪くすると、これは大きなトラブルになりかねない。
友人は根が日本びいきで、日本語も日本人的心情も理解していたから、それ以上の論争にはならなかったが、どちらがよいか悪いかの問題ではなく、西洋と日本では、法や正義に対する考え方が、全く違うことがわかる。
我的朋友本來就喜歡日本,也理解日語和日本人的思維方式,所以我沒有再繼續爭論。問題不在於誰對誰錯,而是西方和日本在法律和正義的看法上完全不同。
この警察官の考え方の中には、正義とか法とかいう理念よりも、きわめて日本的な情けや情といったものが深く入り込んでいたのである。
これは、実に人間味のある態度、考え方で、友人の話を聞いた私は大いに感動した。
理屈や理性だけで判断を下すのではなく、その前後の事情や個々の状況を参考にして、より人情味にあふれる決定を下すというのは、まさに人道的だと思う。
西洋的な法の観念に慣らされた者が、このような日本的心情を理解するのは、かなりむずかしいことであるが、こういった不合理な部分が許されるからこそ、日本は世界でも珍しく住みよい、人間のふれ合いのある国でいられるのではないだろうか。
これらは、日本人が、みずからの長所として、もっと自覚し、誇りを持ってよいことである。
しかし同時に、こういった情は、なんとも定義しにくいものであり、客観的な法の理念の中に入れることは、なかなかむずかしい。
そして、もしそれを許すなら、しまいには人権を守ることさえできなくなってしまう。
ヨゼフ・ロゲンドルフ「ニッポンの大学生」主婦の友社による