ある時、企画の準備をしていた私は、思わず「こんないいかげんなことで大丈夫だろうか」と口にしてしまった。
有一次,當我在準備專案的時候,不自覺地說出了:「這樣偷工減料真的沒問題嗎?」
すると、そばで聞いていた友人が微笑みながら「いいかげんじゃなくて、よいかげんなのよ。
那時,坐在旁邊的朋友微笑著說:「不是馬馬虎虎,而是剛剛好喔。」
それでいいのよ」と言ってくれた。
そのひ言に、胸のつかえがすっとほどけたのを今でも覚えている。
即使到了現在,我仍然記得聽到那句話時心中那份輕盈的感覺。
手元の辞書(広辞苑)を引いてみると、「いいかげん(好い加減)」には三つの意味が示されている。
第一に「よい程あい・適当」、第二に「徹底しないこと・深く考えずに無責任なこと」、第三に「相当・かなり」である。
首先是「適度、剛剛好」,其次是「不徹底、不負責任、不深思熟慮」,最後是「還可以、比較」。
すなわち、「いいかげん」という語は、文脈によって肯定にも否定にも転じ得る、極めて多義的な言葉にほかならない。
換句話說,「ii kagen」這個詞是多義的,根據語境可以有正面或負面的意思。
私たちは普段、(2)の否定的な意味で使いがちだが、本来は「適度」や「ほどよさ」という、むしろ肯定的な含意をもつ言葉なのである。
通常,我們傾向於以負面的意思(第二種意思)來使用它,但其實它原本具有「適度」或「有節制」等正面的含義。
世の中の多くの事柄は、「いいかげん」ではなく「正確さ」や「緻密さ」を信条として努力するからこそ成り立っている。
社會上的許多事情,並不是靠「馬馬虎虎」,而是靠我們以「精確」與「細心」為信條去努力,才能成立的。
それ自体は否定すべきではないにしても、その精神が生活のすみずみまで浸透してしまえば、息苦しさを覚えざるを得ないに違いない。
那並不是錯誤的,但如果那種精神滲透到生活的每個角落,我們一定會感到窒息。
大切な部分をきちんと押さえることは当然としても、日々の暮らしの中には多少のずれや例外があってしかるべきである。
當然,掌握重要的事情是理所當然的,但在日常生活中,某種程度的偏差或例外反而比較好。
すべてを完璧にこなそうとするのではなく、「好い加減」に処理する余白を残すことこそ、人間らしいゆとりにつながると言っても過言ではない。
你不需要把一切都做到完美,正是因為能夠留下一點「適可而止」的空間,才能真正獲得內心的安寧。
言葉の響きひとつで、私たちの心の在り方は驚くほど変化する。
「いいかげん」なのではなく、「好い加減」なのだと、時には自分をやさしく許すことも必要ではないかと思う。
過剰な完璧主義を手放し、適度な曖昧さを受け入れることによって、生きるという営みそのものが、もうすこしやわらかく見えてくるに違いない。