ことしの式典は、新型コロナウイルスの感染を防ぐため、一般の参列者席が設けられず、参列者は例年の1割ほどの500人程度となりました。
式典では、この1年に亡くなった被爆者など合わせて3406人の名前が書き加えられた18万5982人の原爆死没者名簿が納められました。
そして、原爆がさく裂した午前11時2分に併せて鐘が鳴らされ、参列者が黙とうをささげました。
長崎市の田上市長は、平和宣言のなかで「新型コロナウイルス感染症が、自分の周囲で広がり始めるまで、私たちがその怖さに気付かなかったように、もし核兵器が使われてしまうまで、人類がその脅威に気付かなかったとしたら、取り返しのつかないことになってしまう」と述べ、新型コロナウイルスの脅威と同じように核兵器の脅威も世界共通の課題だとして、すべての人々が当事者として問題解決に向けて参加するよう呼びかけました。
そのうえで、「核兵器廃絶は、人類がみずからに課した約束」として、被爆者の長年の悲願である核兵器禁止条約を、日本政府が1日も早く署名・批准するよう求めました。
これに対し安倍総理大臣は広島原爆の日に続き、核兵器禁止条約には触れず、「唯一の戦争被爆国として、『核兵器のない世界』の実現に向けた国際社会の努力を1歩1歩、着実に前に進めていくことは、わが国の変わらぬ使命だ」と述べました。
感染リスク避けるため自宅で祈る被爆者も
長崎に原爆が投下されてから75年の9日、新型コロナウイルスの感染リスクを避けるため平和祈念式典への参加をとりやめ、自宅で祈りをささげる被爆者の姿も見られました。
長崎県大村市に住む松尾勇さん(88)は13歳の時に爆心地からおよそ1.1キロメートルの距離で被爆し、父親の兼松さん(当時77)と母親のマサさん(当時54)を亡くしました。
松尾さんはこれまで、毎年8月9日には子や孫たちとそろって平和祈念式典に参加してきました。
しかし、ことしは新型コロナウイルスへの感染リスクが高まっていることを考慮し、県外に住む孫たちは帰省をとりやめ、松尾さんも式典への出席を控え、自宅で祈りをささげました。
9日は、自宅のある大村市でテレビ中継の様子を見つめ、原爆がさく裂した午前11時2分には手を合わせて祈りをささげていました。
松尾さんは「75年生かしてもらったことに感謝しています。ことしは新型コロナウイルスの影響で式典に参加できず残念ですが、戦争は絶対してはいけないと強く感じています」と話していました。