赤松選手は京都府出身の37歳。平成17年に立命館大学からドラフト6位で阪神に入団し、平成20年にFA=フリーエージェントで阪神に移籍した新井貴浩選手の人的補償で広島に移籍しました。
俊足と守備力の高さを評価され、移籍1年目から3年連続で100試合以上に出場し、3年前の平成28年には、終盤の勝負どころで代走や守備固めとしての役割を果たし、25年ぶりのリーグ優勝に貢献しました。
しかし、その年のオフに胃がんが発覚し、手術で胃の半分を切除し、抗がん剤治療などを経て去年、2シーズンぶりに2軍の実戦に復帰しました。
1軍でプレーすることを目指し、ことしは春のキャンプから精力的に調整する姿を見せていて、2軍のウエスタンリーグで6日までに46試合に出場し、打率1割4分3厘、盗塁を2つ決めています。
しかし、1軍での出場がなく、球団によりますと、赤松選手から今シーズンかぎりで引退する意思が伝えられ、球団もこれを了承したということです。
赤松選手は今月22日に記者会見を開き、この日に広島市のマツダスタジアムで行われる中日戦で、引退セレモニーが行われるということです。
がんと闘いながら…
赤松真人選手は、立命館大学から阪神に入団し、平成20年にFA=フリーエージェントで阪神に入団した新井貴浩選手の補償として広島に移籍しました。
50メートル5秒台の俊足を生かした盗塁と堅い守りを持ち味とし、平成22年の8月に広島市のマツダスタジアムで行われた横浜戦ではホームラン性の打球をフェンスによじ登ってキャッチするスーパープレーを見せました。
チームが25年ぶりのリーグ優勝を果たした平成28年には、終盤の勝負どころで代走や守備固めとして貢献し、チームに欠かせない“いぶし銀”の存在となりました。
しかしそのオフ、初めて受診した人間ドックで胃がんが発覚。すぐに胃の半分を切除する手術を受けましたが、リンパ節への転移が見られる「ステージ3」だと分かり、抗がん剤治療を余儀なくされました。
半年以上に及んだ治療では、抗がん剤の副作用で体重が10キロ近く減少。それでも、同じように病と闘う人やファンから届いた1000通を超える激励の手紙を心の支えに、復帰を目指してリハビリを続けました。
そして去年には2年ぶりに2軍のキャンプに参加。3月4日の練習試合に代打で出場して実戦復帰を果たし、この年は2軍の公式戦55試合に出場して、代名詞の盗塁も5つ決めました。
その後も抗がん剤の後遺症とみられる手足のしびれと闘いながらことしのキャンプでは、「1軍でプレーすることが恩返し。僕もしんどかったときにたくさんの人にエールをもらって頑張れたので」と話し、1軍の試合に出場して盗塁を決めることを目標に練習を続けていました。
それでも、若手が実力をつける中で、1軍に呼ばれることはなく球団に引退を申し入れました。
オフにはがんに関する講演会に積極的に参加するなど、がんからの復活を目指した赤松選手の姿は、グラウンドの内外で多くの人に勇気と力を与えました。
広島 阪神 両ファンから惜しむ声
広島市のマツダスタジアムを訪れたファンからは、これまでの活躍をねぎらう声や引退を惜しむ声が聞かれました。
赤松選手のファンだという広島市の40代男性は、「一生懸命頑張っていて、また1軍に帰ってくると思っていたが残念です。いぶし銀のイメージでした。がんを克服して、まずはお疲れさまでしたと言いたいです」と話していました。
鳥取県大山町の50代男性は「復帰するのを待っていましたが、引退はショックです。足も速いし、守備範囲も広いという印象の選手でした。またカープにコーチで帰ってきたらうれしいです」と話していました。
広島市の20代男性は「びっくりしました。小学生のときに学校に野球を教えに赤松さんが来てくれて、優しく接してくれたのが印象的でした。がんが発覚したときに引退するかもとは思っていましたが、復活してすごいと思います」と話していました。
また、阪神ファンの大阪市の40代男性は「移籍前は赤星さんと赤松さんで売り出そうかというところだったので、貴重な人が移籍してしまったという感じでした。復活劇を見たかったですが、阪神ファンとしても残念です」と話していました。