織田信長と
激しく
対立した
浄土真宗の
僧侶、
顕如が、
信長の
死後、
羽柴秀吉に
接近しようと
書いた
書状が
2通見つかりました。
秀吉宛ての
書状は
ほとんど残っていないということで、
調査にあたった
専門家は「この
段階で、
秀吉を
権力の
ある人物と
認識していたことが
はっきりと
分かる貴重な
史料だ」と
指摘しています。
この2通の
書状は、
東京大学史料編纂所がインターネットオークションで
購入し、
内容や
紙の
質などから
いずれも
浄土真宗の
僧侶、
顕如の
書状と
判断しました。
顕如は「石山合戦」でおよそ10年にわたって織田信長と激しく対立し、和睦のあと、拠点としていた大坂の石山本願寺を出て紀伊、今の和歌山県に移っていました。
調査にあたった史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、書状は、1通が、信長が討たれた「本能寺の変」の翌年の天正11年=西暦1583年に書かれたと考えられ、大坂に入ることになった秀吉に対してあいさつのため使者を送るという内容です。
もう1通は、秀吉の昇進の祝いに刀などを献上するという内容が記され、秀吉が初めて朝廷から位をもらった天正12年に送られたとみられるということです。
顕如はそれぞれの書状を送ったあとに、大坂の中心部に近づくように拠点を移していることから、村井准教授は、大坂に戻るために秀吉に接近しようとしていたことがうかがえるとしています。
秀吉宛ての書状は、その後、豊臣家が滅亡したことからほとんど残っていないということで、村井准教授は「秀吉が完全に天下を取っていない段階で権力のある人物だと認識して、政治的な運動をしていることがはっきりと分かる。当時の政治状況が分かる貴重な史料だ」と指摘しています。
書状は花押が切り取られていた
村井准教授によりますと、天下統一を成し遂げた秀吉には、家臣などから多くの書状が送られていたと考えられますが、秀吉宛ての書状はこれまでに数点しか見つかっていません。
その理由について村井准教授は、「大坂の陣」で豊臣家が滅亡した際に、城にあった書状もなくなってしまったと考えられるとしています。
今回の書状は、捨てるために集められていた書状の中から持ち出されたり、秀吉に仕えていた人が記念にもらったりして、今に伝わったと考えられるということです。
また、書状はいずれも、花押と呼ばれる顕如の署名があった部分が切り取られていました。その理由について村井准教授は、
▽江戸時代に流行した武将などの花押を集めた本に貼り付けるために切り取った、
▽顕如の花押を別の本などに貼り付けて文書を偽造しようと考えた、
▽門徒が信仰心から切り取った、
という3つの可能性を挙げています。
村井准教授は「秀吉が受け取った書状は、基本的には残すものではないうえ、家も滅びているので数は圧倒的に少ない。花押がないことからもいろいろなことが考えられ、大変おもしろい史料だと思います」と話しています。