35歳で迎える今大会で引退することを表明して、24日の競技に臨みました。
三宅選手はバーベルを一気に頭上にあげる前半のスナッチで、1回目に74キロをあげ、後半に進みました。
後半はバーベルをいったん肩まで持ち上げたあと頭の上にあげるジャークで、三宅選手は99キロからスタートし、1回目を失敗したあと、2回目は頭の上までバーベルをあげましたが、腕が曲がっていたとして失敗しました。
そして、最後の試技となった3回目はバーベルを肩まで持ちあげましたが、そのあと立ちあがれず、失敗に終わりました。
日本女子のウエイトリフティングを引っ張ってきた第一人者は、ここで21年間の競技人生に幕を下ろしました。
銀メダルはインドのミラバイ・チャヌ・サイホム選手、銅メダルはインドネシアのアイサー・ウィンディ・チャンティカ選手でした。
A …ちょっといろんな葛藤があるんですけど、最後のチャレンジで失格しちゃったんですけど、本当にきょうの舞台まで多くの人たちに励ましていただいて、無事に立つことができて、少し自分の気持ちの弱さが出ちゃったなというのがあったんですけど、でも最後まで自分なりに一生懸命ベストを尽くせたと思うので、この大会で、まずは無事に舞台に立てたということに、うれしい気持ちでいっぱいです。 Q お父さんと約束した、最後まで諦めない、逃げ出さないという部分はどうですか? A 果たせたとは思うんですけど、父も最後は悔しい思い、いろいろ思うことはあったと思うんですけど、一緒に21年間、一緒に競技できたことと、最後こういう結末になるとは、私自身5年前10年前を思ったら、こうなるとは思っていなかったのですけど、こうやってみんなと一緒に東京の舞台に立てたことが、私にとっても思い出になりました。 Q これで競技生活ひと区切りだと思うが、次はどう考えていますか? A 今のところは、終わってからちょっとゆっくりしたいなと思っているんですけど、本当にひとまず、いったん、次のことはなにかしら、終わった瞬間からスタートしていると思っているので、次の道へ走りたいなと思います。応援してくださり、ありがとうございました。
夏のオリンピックでは日本女子として最多に並ぶ5大会連続の出場。東京大会に至る道のりは決して平たんとは言えませんでした。
当時30歳の三宅選手は引退も考えましたが「地元開催」だからこそ現役続行を決断しました。 ところが、その後の5年は持病の腰に加え、両足を相次いでケガをするなどまさに満身創いと言える状態が続きました。大会の棄権や欠場が相次ぎ、目指してきた東京大会の代表入りさえ危ぶまれる状況に追い込まれました。 それでも貫いてきたのは、みずから目標を設定した東京オリンピックという舞台へ「一直線に走る」という思いでした。 「この5年間、ケガに苦しむことが多かったけれど、これも競技の一つの魅力。同じ道ではないからこそおもしろいし、自分がその状況をどうとらえて向かっていくのかが大事」 困難な状況から逃げず、真っ向から立ち向かう姿勢はぶれませんでした。 メキシコオリンピックで銅メダルを獲得した、父でコーチの義行さんとともに、二人三脚歩んできた21年間、その最後の一瞬まで「完全燃焼」しました。 「何度でも出たくなる、すごく魅力的な舞台」というオリンピックの歴史に名を刻んできた三宅選手、その舞台で今、静かにバーベルを置きました。
三宅選手が競技を始めた中学3年生のころ、新座市立第二中学校でクラス担任をつとめていた石井宇人さん(62)は、三宅選手の試合を都内の自宅で観戦したあと取材に応じ、記録なしに終わった結果について「人ができない経験をした彼女によくやった、ごくろうさんということばをかけてあげたい」と健闘をたたえました。 石井さんによりますと、中学時代の三宅選手はテニス部に所属していたほか、校内の合唱祭では指揮を担当していたということで「もともと筋肉質ではなく、ウェイトリフティングの話は全くしていなかったので、本当に普通の女の子という印象でした」と話していました。 そのうえで石井さんは、三宅選手が競技に打ち込む姿を見て「中学時代にはなかった精神力の強さを学んだのかなと思います。まだまだ彼女は成長できると思うので、頑張ってもらいたい」と話していました。
21年間の競技人生に幕
三宅選手 試合直後のインタビュー全文
「同じ道ではないからこそおもしろい」
中学時代の担任「よくやった ごくろうさん」