右手首や右ひざのけがをしているなかで、決勝に臨んだことについては、「予選は、痛みに耐えられないところがあったが決勝は痛みを無視してテクニックも出していけたし、痛みをこらえられた」と振り返りました。
そのうえで、野口啓代選手とともにメダルを獲得したことについては「何よりも啓代ちゃんと一緒にメダルをとりたいと思っていたので、実現して本当にうれしい」と話していました。
そのうえで野口啓代選手が現役を引退することについて「啓代ちゃんの引退試合で一緒に決勝まで進んで戦えて本当にうれしい。彼女がやってきたことは本当にすごいことなので、穴を埋められるかが心配だが、胸を張って日本を引っ張っていけるよう全力で頑張りたい」と力強く話していました。
そして、野中生萌選手とともにメダルを獲得したことについて「生萌とは長く一緒に頑張ってきたので、2人で金メダルと銀メダルをとりたかったが、一緒に表彰台に上れてうれしい」と話していました。
そのうえで、野中生萌選手とともに表彰台に立ったことについて「最高の思い出ができた。彼女のクライミングへの姿勢や強さは私が一番知っているので、私が引退しても十分任せられる。パリ大会では金メダルをとってほしい」と期待を寄せました。
「これ以上、ぴったりなことって、なくないですか?」と、自分と東京オリンピックの縁をうれしそうに話していた野中生萌選手。自身が誰よりも待ち望んでいた地元の大舞台で銀メダルを獲得しました。 9歳で競技を始めた野中選手は、小学校のかけっこで男子に負けないほどの運動能力の高さと、根っからの負けず嫌いが生き、ボルダリングのトップクライマーに成長しました。 スポーツクライミングのオリンピック採用が決まった5年前、野中選手は競技団体の開いた喜びの会見に登壇しましたが、内心は、どこかひと事でした。 「オリンピックと言われてもぴんと来なくて、『へー』くらいの感じだった」 その後、テレビでクライミングの単語を見かけたり、以前は伝わらなかったクライマーという職業が通じるようになったりと、取り巻く環境の変化が野中選手に刺激を与えました。 「オリンピックは本当にすごいものなんだと実感した。ほかの競技の選手は人生を賭けてやっている。それだけすごいならば、私も挑戦したい」 やると決めた以上は一切の妥協はなく、その象徴の1つが、国内では練習施設の少ない、スピードの壁の確保です。 3年前、実家近くの大学に交渉し、クラウドファンディングで集めた資金で校舎の外壁に自分専用の壁を設置。 ことし5月にワールドカップ3位とスピードで日本勢初の表彰台を射止める成果を挙げました。 また、コロナ禍のこの1年は基礎体力アップを図り、体幹や肩周りの筋力トレーニングにも意欲的に取り組みました。 一方、オリンピックへの道のりは苦難の連続でした。オリンピック出場権をかけた2019年の世界選手権では大会中に左肩を痛め、競技続行が危ぶまれながらなんとか最後まで戦い、出場権を得ました。 しかし、今度はその出場権を巡り、競技団体どうしの争いに巻き込まれ、オリンピック出場が内定するまで1年4か月もかかりました。 そして、調子を上げていたオリンピック直前のことし6月下旬、ワールドカップで右ひざのじん帯を負傷します。 今も完治せず、さらにひざをかばうことで右手首も痛め、4日の予選はその影響からボルダリングで思うような登りができませんでした。 それでも数々の逆境を乗り越えるたびに、たくましさを増してきた野中選手は「決勝では骨が1本、2本折れてもいい」と覚悟を決めました。 「代表選考から落ちた選手や、今までずっと応援してくれている人に、見せられる姿でいたい」 その誓いに恥じない、持ち味のパワフルな登りと最後まで諦めない姿勢を見せ、スポーツクライミングの日本代表に歴史的な初のメダルを野口啓代選手とそろってもたらしました。
それから20年余り。東京オリンピックを最後に現役の引退を表明していた32歳の野口啓代選手は、銅メダルで有終の美を飾りました。 野口選手の強さを支えてきたのは、保持力と言われる並外れた指の力と、父が実家の牧場に設置したクライミングジムで培った、周囲が世界一と評する豊富な練習量です。 16歳で出場した世界選手権のリードで日本女子初の3位に入り、ボルダリングのワールドカップで優勝21回、年間総合優勝4回など、輝かしい実績を残してきました。 実は5年前の2016年、野口選手は引退を考えていました。前の年にけがしたひざの状態に悩んでいたことに加え、長年参戦してきたワールドカップなどに対し、もはやモチベーションを上げられずにいました。 そこに飛び込んできたのが、スポーツクライミングのオリンピック採用のニュースです。 「オリンピックは出たこともないし、味わったこともない。どんな世界なんだろう、出場できたらどれだけうれしいんだろう」 未知の世界のスポーツの祭典を目指すことが、野口選手の新たなエネルギーになりました。 そうと決まったら、練習の虫が黙っているわけがなく、朝から夕方まで1日8時間にも及ぶ3種目の徹底強化に乗り出しました。 苦労したのは、経験のなかったスピードでした。ボルダリングやリードと異なり、手足を連動させながら素早く動かすという、スピード独特の動きになかなか慣れませんでした。 それでもオリンピックのため、苦手なことから逃げずに向き合い続け、3年前の夏にようやく11秒を切ったタイムは、ことし2月の大会で初めて8秒台をマークしました。 「スピードに取り組むことは、今まででいちばんの成長の転機になった。越えられない壁はない。目の前の壁がすごく高く感じていても、自分が成長していけば、その壁は低く感じてくる。だから、逃げちゃいけない」 競技人生の最終盤まで、成長にどん欲であり続けました。 そんな野口選手を周囲もサポートします。父がスポンサーの協力を得て、実家の一角に去年5月に新たに完成させた3種目の壁は、コロナ禍で練習環境の確保に悩む選手もいる中、野口選手に十分なトレーニングをもたらしました。 そして、集大成として迎えた最初で最後のオリンピック。3種目のうちの最後のリードで粘り、逆転で銅メダルをつかみ取りました。 第一人者として積み重ねてきた努力が実を結んだ証しです。 野口選手は、すべての競技を終えた後、会場の関係者席と画面の向こうのファンに向かって深々とおじぎし、笑顔で両手を振って現役生活を締めくくりました。
銅の野口 「生萌と一緒に表彰台に上れてうれしい」
野中 逆境を乗り越えるたび増したたくましさ
野口 銅メダルで有終の美を飾る