体全体を使ったフルスイングが持ち味で、昭和50年には、山本浩二さんとともに中軸を打って活躍して「赤ヘル旋風」を起こし、球団創設26年目での悲願の初優勝に貢献しました。
その後も主力として5回のリーグ優勝と3回の日本一に導き、広島の黄金時代を支えました。
さらに、歴代3位となる161個のデッドボールを受けながらも試合に出続け、昭和54年には左肩を骨折した状態でも休まず出場し、「鉄人」と呼ばれました。
プロ6年目の昭和45年の秋から現役最後のシーズンとなった昭和62年まで連続試合出場を続け、現役最後の年には当時大リーグ記録だったルー・ゲーリックの2130試合連続出場を抜き、プロ野球では王貞治さん以来の2人目の国民栄誉賞を受賞しました。
連続試合出場は2215まで伸ばして引退し、その後、平成10年に大リーグのオリオールズでプレーしたカル・リプケンさんに抜かれましたが、今でもプロ野球記録です。
通算成績は2677試合に出場して、2543安打、ホームラン504本、1448打点をあげていて、打点王と盗塁王に1回輝き、昭和59年には最優秀選手に選ばれました。
背番号「3」は広島の永久欠番になっています。
引退後は野球評論家を務め、明るく気さくな解説で野球ファンに親しまれ、平成8年には野球殿堂入りしていました。
衣笠さんは今月19日にテレビの中継の解説も行っていましたが23日夜、東京都内で大腸がんのため亡くなりました。71歳でした。
「鉄人」17年間休まなかった男
「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄さんは京都府出身で、昭和40年(1965年)広島に入団しました。
体全体を使ったフルスイングが持ち味で、4年目にファーストでレギュラーの座をつかみ、昭和50年(1975年)には山本浩二さんとともに中軸を打って活躍し、球団創設26年目での悲願のリーグ初優勝に貢献しました。
当時、広島の躍進ぶりはチームカラーにちなんで「赤ヘル旋風」と呼ばれ話題になりました。
衣笠さんは歴代3位となる161個のデットボールを受けながらも試合に出続けたほか、昭和54年(1979年)には左肩を骨折した状態でもプレーを続けるなど体の強さとガッツから「鉄人」と呼ばれました。
プロ入り6年目の昭和45年(1970年)の途中から現役最後のシーズンとなった昭和62年(1987年)まで連続試合出場を続け、シーズンの全試合出場は17年間におよびました。
現役最後の年には当時、大リーグ記録だったルー・ゲーリッグさんの2130試合連続出場を抜き、直後にプロ野球では王貞治さん以来2人目となる国民栄誉賞を受賞しました。
連続試合出場は2215まで伸ばし、現在もプロ野球記録となっています。
また通算成績は出場試合が歴代5位の2677試合、ヒットが歴代5位に並ぶ2543本、ホームランが歴代7位に並ぶ504本で、打点王と盗塁王にそれぞれ1回輝き、4回目のリーグ優勝だった昭和59年には最優秀選手に選ばれました。
衣笠さんは主力としてチームを5回のリーグ優勝と3回の日本一に導いて広島の黄金時代を支え、背番号「3」は広島の永久欠番になっています。
山本浩二さん「本当にありがとうと言いたい」
現役時代、衣笠祥雄さんとともに広島の中心選手として5回のリーグ優勝の原動力となった山本浩二さんは、24日午後、都内で取材に応じ「先週、テレビで巨人戦を解説をしていたのを聞いて、声に元気がなかったので心配していた。5月3日にも解説の予定があったようで、野球が大好きな衣笠らしいと思ったが、亡くなるのはまだ早いし、つらい」と絞り出すような声で話していました。
広島の黄金時代を支えた衣笠さんの背番号「3」と、山本さんの背番号「8」は広島の永久欠番で「若い頃から張り合ったよきライバルだったが、それがあったから自分も成長できたし、彼もそうだったと思う。痛いところがあったり骨折したりしても、きぜんとしてグラウンドに出てフルスイングしているのを見ると、自分も痛いとは言っていられなかった。彼には本当にありがとうと言いたい」と話していました。
古葉元監督「涙がこみ上げてきます」
衣笠祥雄さんらを擁して球団初のリーグ優勝を果たすなど、広島の黄金時代を築いた元監督の古葉竹識さんは、NHKの電話取材に対し「ことし1月下旬に会った際、声に少し元気がなく『体に注意しろよ』と言ったら、『まだまだ元気です』と返してくれたので、まさかという思いで涙がこみ上げてきます」と話し、突然の訃報にショックを受けている様子でした。
また衣笠さんなどを擁して球団初のリーグ優勝や日本一を達成した当時を振り返り、「ファンに喜んでもらうために、必死になってチームを引っ張ってくれた姿が印象に残っています。監督としてやれたのは、君たちのおかげだと感謝の気持ちを伝えたいです。これからも広島の選手たちを見守っていてほしい」と話していました。
大野豊さん「カープの一時代を築いた選手 残念」
衣笠さんとともに日本一などを経験したNHKプロ野球解説の大野豊さんは「思い出はたくさんある。体調が悪いということは2、3年前から聞いていたが、キャンプでもお会いしたので驚いている。個人的には現役時代からかわいがってもらった。カープの一時代を築いた選手だったので、残念としかいいようがない」と話していました。
ソフトバンク 達川ヘッドコーチ「野球が大好きな人」
プロ野球 広島で衣笠さんとともにプレーしたソフトバンクの達川光男ヘッドコーチは「レギュラーをつかんだ年に“タツじょうずになったな”と言われて自信がついたのを覚えています」と振り返りました。
衣笠さんが試合に出場し続けていたことについて「“痛いとか、かゆいとか言うからけがになる。黙っていればいい”と話し、毎日、試合に出続けた体力はすごい。オフでも大リーグの中継を見るくらい、野球が大好きな人で、こんなにも野球を愛している人は衣笠さんがナンバーワンでした」と話していました。
広島 緒方監督「優勝を心から喜んでくれた」
広島の緒方孝市監督は試合前に取材に応じ「突然の訃報に信じられない気持ちです。体調がすぐれないという話は聞いていなかったので、本当にびっくりしています。おととし25年ぶりに優勝したときに心から喜んでもらって『常勝チーム、強いカープを作ってくれ』という言葉を頂いたのを覚えています。ことしもしっかりカープの野球をやって、リーグ優勝と日本一の報告ができるよう、われわれも精いっぱい戦っていくだけです」と話していました。
ソフトバンク 王球団会長「後輩に受け継がれている」
ソフトバンクの王貞治球団会長は「鉄人といわれた衣笠さんがこんなに早く亡くなられるとは信じられません。けがを乗り越え達成した連続試合出場記録は、絶対に続けるんだという強い気持ちがあったからですし、その気持ちは後輩にも受け継がれていると思います」と球団を通じてコメントしました。
地元新聞社が号外
衣笠祥雄さんの死去を知らせる報道からおよそ1時間後には、広島市の中心部で地元の新聞社が号外を配りました。
号外には、かつて連続試合出場の世界記録をつくったことなど、衣笠さんの功績が写真とともに掲載され、配布が始まると、とおりかかった人たちが次々と手に取り目を通していました。
号外を受け取った男性は「よく試合を見に行っていたので記憶に残っています。個人的にもお会いしたことがありますが、とてもフランクな人でした。カープが調子がいいときなのに残念です」と話していました。
広島市民からは悲しみの声
衣笠祥雄さんが亡くなったことについて、衣笠さんがかつてプレーしたプロ野球 広島の本拠地がある広島市では、早すぎる死を悼む声が聞かれました。
このうち、広島市の男性は「非常に寂しいです。連続試合出場の記録が非常に印象に残っています。『やすらかにお眠りください』と伝えたいです」と話していました。
また、広島市の男性は「広島の1つの時代をつくった人が亡くなり寂しいです。われわれの年代では、衣笠さんが山本浩二さんと並んでヒーローでした。ハッスルプレーやフルスイングが格好よかったです。一度広島の監督をやってもらいたかったです」と話していました。
さらに、広島市の女性は「驚いてなにも言葉が出ないです。人間的に誰にでも好かれる方と聞いていました。活躍し、皆さんに元気を与えてくれました。ご冥福をお祈りします」と話していました。
渋谷でも「鉄人」を悼む声
衣笠さんが亡くなったことについて、東京のJR渋谷駅前では、プロ野球のファンなどから「鉄人」の死を悼む声が相次ぎました。
プロ野球ファンの56歳の男性は、衣笠さんが亡くなったことについて「本当ですか」と驚いた様子を見せ、「どんなにケガをしても試合に出場し続けた姿勢と功績は、どのチームのファンであろうとも語り継いでいかなければならないと思います」と話していました。
巨人ファンだという47歳の男性は、現役時代の衣笠さんについて「敵のチームでも尊敬せざるをえない偉大な選手でした」とたたえたうえで、「これからも野球界の発展に貢献されると思っていました。『ご冥福をお祈りします』という言葉しかありません」と話していました。
また、高校球児だったという24歳の男性は「現役時代のプレーを実際に見たことはありませんが、父親から活躍ぶりを聞かされていました。亡くなってとても残念です」と話していました。