「子の世代に伝えるため毎年来る」
生後2か月の男の子を抱えて家族や友人とともに平和の礎を訪れた宜野湾市の31歳の女性は「戦争体験者の方は減ってきていると思いますが、子どもの世代にも伝えていかなければいけないことだと思うので毎年来ています。『戦争のない、平和な世界になるように』と祈りたい」と話していました。
「平穏な日が一日でも長く」
浦添市の50歳の男性は、太平洋戦争中に沖縄から九州へ疎開する子どもたちを乗せアメリカ軍に撃沈された船「対馬丸」に乗っていた親戚を慰霊するため、妻とともに平和の礎を訪れ、花を手向けて祈りをささげていました。
男性は「亡くなった親戚に『安らかに眠ってください』という思いで手を合わせました。平穏な日が一日でも長く続けばいいと思います」と話していました。
「叔母の遺骨 今も見つからず」
沖縄戦で2人の叔母を亡くしたという宜野湾市の呉屋清さん(64)は、2人の名前が刻まれた礎(いしじ)に花を手向けて手を合わせました。
呉屋さんは「叔母の遺骨は今も見つかっていません。私は戦後生まれですが、『戦争は人間をおかしくする』と、父から戦争体験を聞いて育ちました。父から聞いたことを伝えていき、地上戦があった沖縄から平和を発信していくことが大切だと思います」と話していました。
「私一人になってしまった」
平和の礎(いしじ)には沖縄戦だけでなく、先の大戦で亡くなった人の名前が刻まれています。
沖縄市の池原ヨシ子さん(89)は、長崎の原爆で亡くなった兄2人の名前をなで、涙を流しながら祈りを捧げていました。
池原さんは「戦争は終わりましたが私1人になってしまい、年月が過ぎるほどさみしさがこみ上げてきます。子や孫のためにも戦争のない世の中になってほしいです」と話していました。
14歳女子中学生「この気持ち 忘れない」
糸満市の14歳の女子中学生は、沖縄戦で亡くなったひいおじいさんや祖母の親戚の慰霊のために家族で平和の礎を訪れ、手を合わせました。
中学生は「昔ひどいことがあったから日本に平和が来てほしいという思いで手を合わせました。毎年来ることでこの気持ちを忘れないでいたいです」と話していました。
「思い出したくないほどつらい」
5歳の時に母を沖縄戦で亡くした那覇市の金城光子さん(78)は家族で平和の礎を訪れ、花やお菓子を手向け地面にひざをついて祈りをささげていました。
金城さんは「母が戦争で亡くなった姿を見ているので思い出したくないほどつらいです。母の遺骨はないのでここに来ると『母が元気だったら一緒にコーヒーでも飲めたのに』といつも思います。若い世代の子たちが安心して暮らせるような沖縄になってほしいです」と話していました。
「両親亡くし 戦後はつらい思いしてきた」
沖縄戦で父を亡くし、戦後の食糧難で母も亡くしたという南城市の新垣好子さん(78)は、礎(いしじ)に刻まれた父の名前を丁寧に磨き、涙ぐみながら手を合わせていました。
新垣さんは「父は遺骨がある分、ほかの犠牲者よりも恵まれていると思っています。戦後は両親がいなかったため、きょうだいとつらい思いをしてきました。この場所に来たら毎年、涙が止まりません。戦争がなかったら父は生きていたし、戦争を本当に憎みます」と話していました。
東京から親族連れ訪れた人も
沖縄戦で祖父と2人の親戚を亡くした東京 八王子市に住む高原勝枝さん(45)は83歳の母や3人のめいと平和の礎(いしじ)を訪れ、手を合わせていました。
高原さんは「二度と戦争は起きてほしくないと思います。学校でも習うと思いますが、戦争の記憶が薄れないようめいにも伝えていかなければならないと思います」と話していました。
手作りの弁当供える
那覇市の60歳の女性は、沖縄戦で亡くなったおじの慰霊のために孫と一緒に平和の礎を訪れ、手作りのお弁当を供えて涙を流しながら手を合わせていました。
女性は「母がお弁当を供えていたので引き継いで続けています。元気なうちはここに来て、二度と戦争がないように、孫、ひ孫の代まで平和が続くように祈りたい」と話していました。
小学6年生の孫は「私は戦争を知りませんが戦争で亡くなった人のために毎年ちゃんと来たい」と話していました。
「子や孫に命の大切さ伝えたい」
沖縄戦で2人の姉や義理の父らを亡くした那覇市の田中きよ子さん(69)は夫と平和の礎を訪れ、亡くなった人たちの霊を慰めていました。
田中さんは「私は戦争を体験していませんが、母からずっと戦争の話を聞いて育ちました。犠牲になった人たちのことをいつまでも忘れてはいけないと改めて思います。子や孫にも命の大切さを伝えていきたいです」と話していました。
「基地あるところに平和訪れぬ」
沖縄戦でおじ2人と兄を亡くした、中城村の喜舎場達生さん(68)は娘夫婦や孫と平和の礎を訪れました。
喜舎場さんは「今の沖縄を見ているとやはり基地が気になります。基地のあるところに平和は訪れません。戦争は体験していませんが、子どもたちに平和をつないでいきたい」と孫の手を握りながら話していました。
「犠牲になった人たちが見守ってくれている」
沖縄戦で同い年だったいとこと2人の義理の姉を亡くした豊見城市の高良正信さん(77)は平和の礎を訪れ、3人の名前が刻まれた碑を手でなでて霊を慰めていました。
高良さんは「戦争の記憶は、壕から壕に逃げていたという記憶以外にありません。沖縄戦の前に亡くなったいとこと一緒に遊んでいた記憶があります」と涙ぐみながら話しました。
そして、「3人には『ことしも来たよ』と話しかけました。私たちがこうして生活できるのも、戦争で犠牲になった人たちが見守ってくれているからだと思います。元気であるかぎり、毎年ここを訪れたい」と話していました。