廃炉作業に当たる人「8年はあっという間」
福島県広野町にある東京電力の協力企業の事務所では20人ほどの作業員が集まり、黙とうをささげて犠牲になった人を追悼しました。
そして「ご安全に」という掛け声とともに、福島第一原発の構内へ機材を運ぶ準備など、作業に取りかかっていました。
この企業では、事故で内部に高い濃度の放射性物質が付着している高さ120メートルの排気筒の解体を担っていて、今は模擬の設備で解体作業の実証実験を行っています。
浪江町出身で事故後の収束や廃炉の作業にあたってきた佐藤哲男さん(45)は「目の前の作業をやり遂げることに必死で、8年という月日はあっという間でした。周辺の地域からも見える排気筒を解体することで、廃炉が進んでいることを実感できると思います。慎重に安全にやりとげたいです」と話していました。
宮城 石巻 津波被災の町見下ろす山から祈り
津波で大きな被害を受けた宮城県石巻市では、早朝から地元の人たちが犠牲者を追悼しました。
宮城県によりますと、震災で石巻市では関連死も含めて3552人が亡くなり、今も420人の行方が分かっていません。
市街地を見渡せる日和山には、時折雨が強く降る中、早朝から地元の人たちが訪れ、津波に襲われ空き地が目立つ沿岸部を見下ろしながら祈りをささげていました。
石巻市門脇地区で被災し自宅が流されたという63歳の女性は「この時期になるとあの日のことを思い出します。無我夢中で生きてきた8年でした。亡くなった人たちの命をむだにしないよう、防災の大切さを次の世代に伝えていきたいです」と話していました。
石巻市南浜地区の自宅が津波で流されたという63歳の男性は「当時はあちこちにがれきの山ができて炎も上がり地獄のような光景が広がっていて、いまも脳裏に残っています。この8年、一歩一歩前に進むしかないと気持ちを切り替えて過ごしてきました。まだ見つかっていない同級生の供養のためにも、ただ祈ることしかできません」と話していました。
宮城県の内陸部にある栗原市で当時、大きな揺れを経験したという40代の女性は「同じ宮城県でも内陸では元の生活を取り戻しつつあり、震災のことを忘れずにみんなで考えることが大事だと思います。被災した方の気持ちに少しでも寄り添えたらと思います」と話していました。
大阪 寝屋川市から初めて石巻市を訪れたという30代の女性は「当時、怖くてテレビもあまり見られなかったのでようやく被災地を訪れました。もう少し復興が進んでいると思っていましたが、空き地が広がる光景に驚いています」と話していました。
児童犠牲の大川小 県内外から慰霊の人たち
石巻市の大川小学校では震災の津波で児童と教職員合わせて84人が犠牲となり、旧校舎は震災遺構として保存されることになっています。
11日朝は、地元の人たちのほか長野県から被災地について学びに来たという大学生およそ10人が訪れて、冷たい雨が降る中、慰霊碑の前で静かに手を合わせました。
大学1年の女子学生は「震災が起きたときは小学5年生で、これまで被災地に足を運んだことはありませんでした。校舎を実際に見て津波の脅威を感じることができました。きょう学んだことを多くの人に伝えていくことが自分にできることだと思うのでしっかり目に焼き付けて帰りたいです」と話していました。
福島 南相馬 犠牲者が県内最多 海に向かい祈り
津波で福島県内で最も多い525人が犠牲となり、今も111人の行方が分からないままの南相馬市でも、11日朝早くから海に向かって祈りをささげる人の姿がみられました。
東京電力福島第一原発から北におよそ25キロ離れた海岸では、11日午前7時半ごろ、近くでサーフショップを経営している鈴木康二さんが(63)海に向かって手を合わせていました。
鈴木さんの母親は震災当時、南相馬市内の病院に入院していましたが、原発事故に伴う避難を強いられ、その2週間後、体調の悪化で死亡し、震災関連死と認定されました。
鈴木さんは「この日は毎年つらいですが、追悼の気持ちを忘れず少しずつ前に進んでいきたいです」と話していました。
高校生の娘と2人で海岸を訪れていた地元の男性は「あの日の記憶を忘れないように毎年この日に娘と来ています。南相馬が早く元どおりに戻ってほしいです」と話していました。
震災のあと南相馬市で3年間、ボランティアをしていたという京都から訪れた50代の男性は「福島の復興の状況を確認しようと久しぶりに訪れましたが、まだ避難指示が出ている地域があるなど、復興は進んでいない感じました。課題は多いと思いますが、少しずつでも前に進んでほしいです」と話していました。
津波被災の仙台 荒浜「いつになっても忘れられぬ」
津波でおよそ200人が犠牲になった仙台市若林区の荒浜地区では雨の中、朝早くから海岸で手を合わせたり、慰霊塔の前で祈りをささげたりする人が見られました。
地区にあった自宅が被災し、親戚が亡くなったという66歳の男性は「きょうという日はいつになっても忘れられず、何とも言えません」とことばを詰まらせながら話していました。
岩手 大槌町 役場解体に反対の遺族と亀裂も
津波で多くの職員が犠牲になった岩手県大槌町の旧役場庁舎が解体された跡地では、雨の中、11日朝も地元の人が訪れ、祈りをささげています。
大槌町では当時の町長や職員など合わせて40人が津波で犠牲になりました。
旧役場庁舎を保存するか解体するかで意見が分かれましたが、町はことし1月からおよそ1か月半かけて建物を取り壊しました。
跡地に設けられた献花台では11日朝、旧庁舎で働いていた同級生を亡くした男性が手を合わせに訪れていました。
岩間英二さん(64)は「供養になればと思って祈りました。建物は少しでも残したほうがよかったのではないか」と話していました。
遺族からは、この場所に津波の高さがわかるモニュメントの設置や、祈りの場所として整備してほしい、といった要望が出ています。
町は11日午前8時から初めての追悼式を行う予定ですが、解体に反対してきた遺族からは欠席の意向が寄せられているということです。
夫亡くした悔い 津波の恐ろしさ伝える語り部に
津波で64人が犠牲になった福島県相馬市の尾浜地区では、早朝から浜辺を訪れて海に向かって手を合わせる人の姿が見られました。
海水浴場のすぐ近くで夫婦で民宿を営んでいた五十嵐ひで子さん(71)は、夫の利雄さん(当時67)を津波で亡くしました。
当時、地震の揺れが続く中、家の後片付けをする利雄さんに「早く逃げっぺ」と伝えるか迷ったものの大丈夫だと思い、ともに避難しなかったということです。
助かったひで子さんは避難しなかったことを今でも悔やみ、津波の恐ろしさや避難を最優先にすることの大切さを伝えようと、語り部として活動しています。
震災から8年の11日朝、ひで子さんは、当時民宿を営んでいた場所を8年ぶりに訪れ、海に向かって手を合わせて利雄さんをしのんでいました。
ひで子さんは「当時は津波が来るなんて思ってもみなかった。もう一度あのときに戻ることができるのなら、『すぐ逃げよう』と夫に伝えます。これからも語り部として活動する中で津波が来る可能性があったらすぐ逃げて命を守ることの大切さを、伝えていきたい」と話していました。
岩手 大槌町「死者とは心が通うだけだから祈る」
岩手県大槌町赤浜地区では、冷たい雨の中、海に向かって祈りをささげる人の姿が見られました。
大槌町赤浜地区に住む岩間幸雄さん(82)は、義理の妹と親戚2人が震災による津波で亡くなりました。
震災から8年の11日朝も、冷たい雨が降りしきる中、自宅近くの海が見える高台から静かに手を合わせ、祈りをささげていました。
岩間さんは「義理の妹と親戚2人、同級生や多くの友達が津波で亡くなりました。きょうで8年で、8回祈っています。生きている人は会話ができますが、亡くなった人は心の通い合いだけだから、祈ります」と話していました。
宮城 名取 津波被災の町 見下ろす高台から祈り
津波で多くの犠牲者が出た宮城県名取市の閖上地区では、雨の中、朝早くから地区を見渡せる高台を訪れて祈りをささげる人の姿が見られました。
名取市の閖上地区では震災の津波で700人以上が犠牲になり、去年12月に、計画された災害公営住宅7棟すべてがようやく完成したものの、人口はおよそ2600人と震災前の半分以下に減っています。
震災の発生から8年となり、海から1キロほど離れた、地区を見渡せる高台では、雨の降る中、朝早くから祈りをささげる人の姿が見られました。
復旧工事の現場で警備員をしているという50代の男性は「亡くなられた方にご冥福をお祈りしよう思って来ました。復興に携わる者として閖上地区を以前のようなにぎわいのあるまちにしたいです」と話していました。
岩手 田老地区 静かな朝
岩手県宮古市の田老地区では、冷たい雨が降る中、静かな朝を迎えました。
8年前の震災では、津波が国内最大級の防潮堤の一部を壊して押し寄せ、181人が犠牲になりました。
宮古市田老地区に住む清水川高子さんは津波で義理の両親を含め、親戚6人を亡くしました。清水川さんは「8年がたってしまったなという感じです。前に進んでいくしかないし、復興していくしかないです。3月11日になれば毎年思い出すと思います。田老は、もとのようには戻らないけど、また津波が来る前にすべてが完成してほしい」と話していました。
川戸弘治さん(72)は、震災前は海沿いで民宿を営んでいましたが、従業員が津波の犠牲になりました。川戸さんは、「長いようで短い、複雑な気分です。一生忘れることができない出来事です。亡くした人のことは、忘れようと思っても忘れられないです」と話していました。
田老地区の高台にある「常運寺」では、震災で家族を亡くした人たちが早朝から傘を差して墓参りに訪れ、手を合わせる姿が見られました。
久保田ヤエさん(83)は津波で息子を亡くしました。孫の海世さん(19)とともに訪れ、2人で墓前に花を供えたあと、静かに手を合わせ、祈りをささげていました。
ヤエさんは「8年は早いです。津波が無ければ元気でいたのに」と息子をしのんでいました。
また、父親を亡くした孫の海世さんは「まだ時間がたっていない気がしています。残念な気持ちと、仕方がないという気持ちでお父さんに祈りをささげました。僕は僕なりに頑張りますと気持ちを伝えました」と話していました。
岩手 陸前高田 雨の中祈り
岩手県陸前高田市の中心部にある慰霊碑では朝から祈りをささげる人の姿がみられました。
雨が降り続くなか、多くの花が供えられた慰霊碑の前では訪れた人が手を合わせていました。
陸前高田市で復興作業にあたっている宮城県石巻市の60代の男性は「復興が進んでいないように感じています。残された私たちのこれからの努力が必要だと思います」と話していました。