沖縄は23
日、20
万人を
超える人が
亡くなった
沖縄戦から80
年の「
慰霊の
日」です。
6月23日是“慰灵日”,纪念冲绳战役80周年,在那场战役中有超过20万人丧生。
戦没者を
追悼するとともに、
沖縄戦の
実相を
伝え
平和への
願いを
新たにする1
日となります。
在悼念阵亡者的同时,这一天也成为了传达冲绳战役真实情况、并重新祈愿和平的日子。
太平洋戦争末期の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が亡くなり、県民の4人に1人が命を落としました。
在太平洋战争末期的冲绳战役中,激烈的地面战斗波及到居民,导致超过20万人丧生,冲绳县每四人中就有一人失去了生命。
6月23日は旧日本軍による組織的な戦闘が終わったとされる日で、県が「慰霊の日」と定め、最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では戦没者追悼式が行われます。
6月23日被认为是旧日本军有组织战斗结束的日子,县政府将其定为“慰灵日”,在最后激战地——糸满市摩文仁的和平祈念公园会举行阵亡者追悼仪式。
体験者から直接、話を聞く機会がほとんどなくなる中、証言をもとに語り継いできた沖縄戦の歴史が「正確ではない」などと否定されることも出てきています。
在几乎没有机会直接听取亲历者讲述的情况下,根据证言代代相传的冲绳战历史,如今也出现了被否定为“不准确”等说法。
こうした中、沖縄戦の実相を伝えるため、旧日本軍が首里城の地下に造った司令部ごうなどの戦跡を「物言わぬ語り部」として活用したり、平和教育にデジタル教材を導入したりする取り組みが広がっています。
在这种情况下,为了传达冲绳战役的真实情况,利用旧日本军在首里城地下建造的司令部壕等战争遗迹作为“无声的讲述者”,以及在和平教育中引入数字教材等举措正在逐渐推广。
一方、沖縄県内には、依然として全国のアメリカ軍専用施設のおよそ7割が集中し、去年は刑法犯として検挙されたアメリカ軍関係者が、過去20年で最も多くなるなど基地の悩みは続いています。
另一方面,冲绳县内依然集中了全国约七成的美军专用设施,去年被作为刑法犯逮捕的美军相关人员数量达到了过去20年来最多,基地带来的烦恼仍在持续。
さらに国が沖縄を含む南西諸島の防衛力強化を進める中、日本の安全保障に伴う沖縄の役割や負担は増しています。
随着国家推进包括冲绳在内的西南诸岛防卫力量的强化,冲绳在日本安全保障中的作用和负担也在增加。
沖縄では23日、戦没者を追悼するとともに、沖縄戦の実相を伝え、平和への願いを新たにする1日となります。
在冲绳,23日不仅是悼念战亡者的一天,也是传达冲绳战役真实情况、重新祈愿和平的一天。
「平和の礎」早朝から祈り
沖縄戦最後の激戦地、糸満市摩文仁の平和祈念公園にある「平和の礎」は沖縄戦などで亡くなった人たちの名前を、国籍や軍人、民間人の区別なく刻んだものです。
“和平之礎”从清晨开始祈祷。位于冲绳战最后激战地——糸满市摩文仁的和平祈念公园内的“和平之礎”,刻有在冲绳战等战争中去世者的名字,无论国籍、军人还是平民都一视同仁。
沖縄戦などで命を落とした人々を悼み、悲惨な戦争の教訓を後世に継承しようと、戦後50年の1995年に建てられました。
为悼念在冲绳战役等战争中丧生的人们,并将那场悲惨战争的教训传承给后世,于战后50年的1995年建成了这座纪念碑。
沖縄県出身者については沖縄戦だけでなく、1931年の満州事変以降に戦争が原因で亡くなった人の名前も刻まれています。
关于冲绳县出身者,不仅刻有冲绳战役中丧生者的名字,还刻有自1931年“满洲事变”以来因战争而去世的人的名字。
毎年6月23日の「慰霊の日」に合わせてこの1年で新たに申告のあった戦没者の名前が追加されていて、ことしは342人が追加されました。
每年6月23日的“慰灵日”都会新增在过去一年中申报的战亡者姓名,今年新增了342人。
内訳は、県内出身者が16人、県外出身者が325人、アメリカ出身者が1人です。
其中,来自县内的有16人,来自县外的有325人,来自美国的有1人。
礎に刻まれた人はあわせて24万2567人となっています。
「平和の礎」の前では、23日朝早くから遺族などが訪れ静かに手を合わせて平和への祈りをささげていました。
在“和平之礎”前,23日清晨起便有遗属等人前来,静静地合掌,为和平祈祷。
沖縄県宜野湾市から家族と訪れた30代の女性は「毎年、子どもとここに来ることが沖縄で何が起きたかを知る機会だと思っています」と話していました。
一位和家人一起来自冲绳县宜野湾市的30多岁女性表示:“我认为每年带孩子来这里,是了解冲绳发生了什么事情的一个机会。”
また、小学6年生の女性の息子は、「ここに来られることや、平和があることに感謝したいです。
此外,小学六年级女生的儿子表示:“我想感谢能够来到这里,以及这里的和平。”
一度きりの
人生なので
兄弟3
人で
仲よく平和に
暮らしたい」と
話していました。
因为人生只有一次,所以我们三兄弟想要和睦相处,平平安安地生活。
「魂魄の塔」でも祈り
「魂魄の塔」は沖縄戦最後の激戦地となった糸満市の米須に沖縄戦の翌年、1946年に県内で初めて建てられた慰霊塔です。
“魂魄之塔”也是祈祷之地。“魂魄之塔”是冲绳战役最后激战地——位于糸满市米须,于冲绳战役次年1946年,作为县内首座慰灵塔而建立。
米須地区に収容された今の那覇市、当時の真和志村の住民がアメリカ軍の許可を得て遺骨収集班を結成し、道路や畑に散っていたおよそ3万5000人の遺骨を集め建立しました。
被收容到米须地区的现今那霸市、当时真和志村的居民,在获得美军许可后,组建了遗骨收集小组,收集了散落在道路和田地里的约3万5千具遗骨,并建立了纪念设施。
遺骨の見つかっていない遺族が多く訪れる場所になっていて、23日朝も訪れた人たちが静かに手を合わせて平和への祈りをささげていました。
成了许多尚未找到遗骨的遗属前来探访的地方,23日早上也有来访者静静地合掌,为和平祈祷。
父親が27歳の時に県南部で戦死したという仲村光子さん(80)は「お父さんが戦争に行ったとき私は生後8か月だった。
据仲村光子(80岁)说,她的父亲在27岁时在县南部战死,“父亲去参战的时候,我才8个月大”。
戦死して
遺骨がないから
魂魄の
塔に
来て
お祈りをしている。
私ももう80
歳なのであと
何回来られるかわからないが、
とにかく見守ってくださいと
お願いした。
我也已经80岁了,不知道还能来几次,但无论如何还是请求您请多多关照。
年に1
回、
朝はここに
来ている。
できるだけ、
来られるだけは
来たいと
思っている」と
話していました。