7日午後6時から都内の斎場で営まれた通夜には王貞治さんや堀内恒夫さんなど巨人でともに9年連続の日本一、V9を果たしたかつてのチームメートや、松井秀喜さんや原辰徳さんなど長嶋さんが監督時代に指導した教え子など126人が参列しました。
式ではV9時代のエースだった堀内さんと、長嶋さんのあとを受けて巨人の監督を務めた原さんが弔辞を述べました。
このうち、堀内さんは「私の巨人軍に入りたい夢、長嶋さんをみて野球を始めて、そして7年後に巨人軍に入ることになりました。私もその中で、ご一緒させていただいて、選手どうしとしてプレーができたことを非常に光栄に思っております。ありがとうございました」と振り返り、別れを惜しみました。
また、原さんは「常に勝負に厳しく、ファンのことを第一に考えられていた長嶋さん。私をはじめ、今の巨人軍選手にも確実に長嶋さんの志は受け継がれています。長嶋茂雄は永久に不滅です。ミスター、本当にありがとうございました。これからも大好きな巨人軍を温かく見守ってください」と感謝を伝えました。
そして、喪主を務めた次女の三奈さんがあいさつし、「父の話が出ると、もう周りの方が皆さん、一瞬にして笑顔の花がぱっと咲いて、父ってどこにいてもいろんな方を笑顔にするんだな、もう野球と関係ないのに笑顔で包んでくれるんだなと、ちょっと恥ずかしながらも娘としては誇りに思っておりました。そんな父ですので、皆さん、どうかこれからも笑顔で笑い声をあげながら、父のことを話していただければなと思います」などと思い出を振り返りました。
ひつぎを乗せた車 東京ドームの周辺を通って斎場へ
通夜を前に、長嶋さんのひつぎを乗せた車は7日午後2時半すぎに、長男の一茂さんや次女の三奈さんなど家族に見送られる中、都内の自宅を出ました。
そして、本拠地の東京ドームの周辺を通って斎場へと向かいました。
長嶋さんは巨人の本拠地が後楽園球場から東京ドームに移ったあとの2期目の監督時代に2回の日本一に輝きました。
東京ドームでは2013年の国民栄誉賞の表彰式や2021年に野球界で初めて文化勲章を受章したことを記念するセレモニーも行われ長嶋さんにとってゆかりの深い場所です。
東京ドームでは7日午後2時から巨人対楽天のデーゲームが行われ、長嶋さんの車は4万人以上のファンが声援を送っていた試合中にあたる午後3時13分から24分にかけて東京ドーム周辺を通って斎場に向かい、数々の名場面の舞台となった思い出の地に別れを告げました。
巨人は7日の試合で長嶋さんが亡くなってから初めての勝利を挙げています。
原辰徳さん「本当に憧れていた」
通夜で弔辞を述べた原辰徳さんは「私は本当に憧れていたし、長嶋さんという偉大な方がいたからこそ野球ができました。選手としても、コーチとしても監督としても見守ってもらいました。そしてきょうは弔辞という形でごあいさつができたことも私の中では誇りですし、本当になんて言っていいかわからないぐらい感謝の気持ちでいっぱいです」と長嶋さんへの思いを述べました。
そして、「本当に穏やかなお姿だった。野球ファン、長嶋ファンの前では長嶋さんってこんな人だったんだという話は伝えていきたいと思います。もう感謝しか僕の中にはありません。同時に安らかにお休みくださいとお伝えしたい」と話していました。
堀内恒夫さん「少しでも遺志を継いで」
弔辞を述べた堀内恒夫さんは通夜を終えて、「きょう弔辞を読ませて頂いてちょっと長かったかなっていう気がするんだけれども、自分の気持ちを素直に伝えました」と振り返りました。
「もう本当に、89年、本当に突っ走ってきたと思います。休むことを知らない人なんですよ。ともに選手で9年、監督と選手として6年、監督とコーチとして7年、野球人生の中で、常に長嶋さんはどこかにいてくれました。そして僕たちを導いてくれた人なんです。いなくなったら、道案内がなくなって困ってます」と悲しみを口にしました。
そして、「野手では『長嶋さんに教わった』という人もいるけど僕らピッチャーはどうすれば野球界がよくなるかということしか教わってないんですよ。微力ですけど、少しでも親父さんの遺志を継いでできればいいかなと、改めてここに来て、心の中に誓いました」と胸の内を話しました。
阿部慎之助監督「強い巨人になるよう」
巨人の阿部慎之助監督は「本日のお通夜に参列し、今までのことを思い出してさみしさが込み上げてきました。私が監督になってから長嶋さんとお会いするといつも『慎之助、大丈夫、きょうは勝つよ』と前向きな言葉をかけてくださり、その言葉に何度も救われてきました。これからもずっと巨人のことを心配して気にかけてくださると思います。安心して見ていただけるような強い巨人になるようチーム一丸となり、精一杯頑張ります」とコメントしました。
丸佳浩選手「偉大さや誰からも愛された方だと実感」
7日のデーゲームで今シーズン初ホームランを打って勝利に貢献し、試合後に通夜に参列した巨人の丸佳浩選手は「お通夜に参列させていただき、長嶋終身名誉監督の偉大さや、誰からも愛された方だったということを実感しました。シーズンの最後には日本一の報告ができるように頑張ります」とコメントしました。
岡本和真選手「復帰していい報告を」
長嶋さんが長く務めた「巨人の4番」を受け継いだ岡本和真選手は現在、左ひじのけがでリハビリが続いていますが7日夜の通夜に参列し、「お通夜では長嶋終身名誉監督の功績を改めて知ることができました。現在はリハビリ中ですが、復帰していい報告ができるように毎日を過ごしていこうと思います」とコメントしました。
山口寿一オーナー 亡くなる直前の様子を明かす
巨人の山口寿一オーナーは通夜でのあいさつで長嶋さんの病状や亡くなる直前の病室での様子を明かしました。
山口オーナーによりますと、長嶋さんは5月下旬に肺炎が悪化して、血圧が下がり、31日には重篤な状態になったということです。
それでも医師が驚くほどの頑張りを見せて一時、持ち直したということです。
亡くなった今月3日は次女の三奈さんの誕生日で山口オーナーはあいさつで「三奈さんの誕生日まで頑張ったのだと思います」と話しました。
また、最期まで長嶋さんらしく多くの人たちに愛された病室でのエピソードも明かされました。
長嶋さんは病室で「痛い」「つらい」といった言葉はいっさい、口にせず、看護師が痛みを伴う喉の吸引をしていいか尋ねるときもいつも力強くうなずいたということです。
こうした長嶋さんの姿を見た看護師たちは長嶋さんのいた集中治療室に巨人のマスコットキャラクター、ジャビットの写真や、手作りのオレンジ色のペーパーフラワーを飾って、励ましてくれたということです。
山口オーナーは「看護師さんたちもすっかり長嶋ファンになっていました。最期まで、周りの人々に感動を与えてドラマを残しました」と話しました。
【全文】原辰徳さん弔辞
長嶋さんが巨人の監督を辞任した1980年のドラフト会議で巨人の指名を受けて入団し長く4番を務めたほか、2001年には長嶋さんのあとを継いで監督に就任した原辰徳さんの弔辞です。
長嶋さん、原辰徳です。
長嶋さん寂しいです。
世界中の野球ファンがそう思っているでしょう。
私もその中の一人です。
私は長嶋さんに憧れていました。
九州で生まれ、野球を見ることが大好きでした。
長嶋さんのワンプレー、ワンプレーかっこよかった。
「4番、サード、長嶋」の響きに憧れ、同じポジションを守りたいと強く思いました。
東海大学4年のときのドラフト会議で、私は藤田監督に交渉権獲得のくじを引いてもらい、夢であった巨人軍入団となりました。
その日の夜、自宅に1本の電話が鳴りました。
おふくろが出たのですが、「長嶋さんからよ」と血相を変えて伝えてきました。
代わってみると「長嶋です。おめでとう。君が巨人に入ってくれて本当によかった」と祝福してくれました。
その年、長嶋さんは監督をお辞めになって、立場的にも難しい状況だったと思いますが、なんと広い視野で野球を捉え、巨人を愛している方なのだろうと思いました。
その中で長嶋さんの言葉は力になり、宝になり、自信を持って巨人の門を叩くことができました。
指導者としても多くのことを教わりました。
野手総合コーチ、ヘッドコーチとして3年間、長嶋監督のそばに立たせてもらいました。
東京ドームの監督室、遠征に出れば宿舎の部屋で、それこそ長嶋さんが「もう今日はいいんじゃないか」って顔をされるぐらい通いましたよね。
本当に全てを学ばせてもらいました。
試合中も、移動するバスの中も、常に長嶋さんの後ろが私の定位置でしたから、私ほど長嶋さんの背中を見つめた人間はいないんじゃないでしょうか。
常に、万人に愛される、朗らかな笑顔を絶やさない方でした。
背中は本当にいろんな表情を見せてくれました。
勝てば揚々と躍動するような雰囲気でしたが、負ければ、何とも言えない寂しそうなものでした。
「こんな背中は見たくない」と活力にしたことも記憶に鮮明に残っております。
2001年9月27日、広島との試合後です。
監督室に呼ばれました。
急いで監督室のドアをノックし、開けてみると、すぐ目の前に直立されて、立たれていました。
いつもと違う雰囲気に圧倒されていると、「来年から原監督だ。おめでとう」と右手を差し出してくれました。
何が起きているかよくわからないままに、両手でその手を握り返しましたが、そのときの長嶋さんの手の熱さに足はガクガク震え、同時に責任の重さを感じました。
あれから私なりに一生懸命駆け抜けてきましたが、監督に指名してくれた長嶋さんの期待に応えたことはできたでしょうか。
監督を務めていた間は「どうだ、気分良くやっているか」といつも温かい言葉をかけてくれましたね。
一言二言、忠告したいこともあったのかもしれませんが、そういったことは一度もありませんでした。
私は「監督たるもの人に頼るなよ。自立するんだぞ」というメッセージを受け取っていました。
常に勝負に厳しく、ファンのことを第一に考えられていた長嶋さん。
私をはじめ、今の巨人軍選手にも確実に長嶋さんの志は受け継がれています。
長嶋茂雄は永久に不滅です。
ミスター、本当にありがとうございました。
これからも大好きな巨人軍を温かく見守ってください。
【全文】堀内恒夫さん弔辞
長嶋さんとともに巨人でプレーし、V9時代のエースとして活躍した堀内恒夫さんの通夜での弔辞です。
「監督、堀内です」って言うと、向こうから「おお入っていいぞ」という声が聞こえます。
今でも起き上がって声がするんじゃないかなというふうな錯覚にとらわれます。
私が、V9時代の一番若い選手でございまして、監督とはひと回り違います。
私も77歳になりました。
でも、3日後に弔辞を読めと言われても、私の心はまだ整理がつきません。
私の巨人軍に入りたい夢、これは長嶋さんをみて、野球を始めて、そして7年後に巨人軍に入ることになりました。
間に合ったと思いました。
なぜか。
長嶋さんと一緒に野球ができる喜び、入ったら、金田さんがいて、王さんがいて、すごいところへ入ってしまったなと。
でも、巨人軍のV9というのは打高投低。
ピッチャーの方がどちらかというと弱かった。
V9をやったピッチャーはいません。
野手の方が、V9をやったのだと思います。
その中の王さん、長嶋さん。
この2人が、両巨頭が並び立ったおかげで、V9という偉大な成績が残せたんじゃないかなと思います。
私もその中で、ご一緒させていただいて、選手どうしとしてプレーができたことを非常に光栄に思っております。
ましてや、選手が結婚式の仲人をするなんてことは稀なんです。
それを長嶋さんが快く引き受けていただきました。
でも、大変なことになりまして、私への質問より、長嶋さんと奥様の方に質問が集中して、誰の結婚式なんだって慌てたこともたくさんありました。
でも、あの結婚式の監督のスピーチが、私は今でも忘れられません。
非常にお上手だったです。
そして、監督が現役をお辞めになって、そして今度は監督と選手として6年間お世話になりました。
1年目、巨人軍の最悪である最下位の6位という不本意な成績をおさめました。
それは長嶋監督なり、王さんがけがをしていましたし、もう最悪の1年間ではなかったかなと思います。
でも、次の年に張本さんが来られたりして、勝つんですけれども、監督はこのチームじゃ勝てない。
だから(キャンプを)伊東でやるんだって言って、じゃあ、私も連れてってくださいと「お前はちょっと年がいってるからもういいだろう」というようなことを言って、連れていってくれませんでした。
私が6年後、200勝のときに、あと2勝というところで足踏みし、チームも勝てなかったんです。
その時に長嶋さんは、男のけじめだって言って、監督をお辞めになって、私は非常に自分に責任を感じて、こんなロートル、いつまでも野球やっちゃいけないなと思いながら、地団駄を踏んで現役を少し続けました。
そしたらまた、数年後に長嶋さん戻ってこられて、今度は監督とコーチという形で、お世話になりました。
私もお勤めをさせていただきました。
10・8、いい経験をさせていただきました。
監督の部屋に前の晩は4回夜中に行きました。
このピッチャーでやるしかないんだって、私は納得していただいて、あの3人の※マキ原、斎藤、桑田といういいピッチャーがいたんで、勝つという自信もありました。
でもあれが有名な「勝つ、勝つ、勝つ!」。
私どもも記憶が定かではありませんが、3回おこなったか、1回おこなったかはもうあまり記憶にはございません。
でも、選手もいい経験をしまして大きくなったし、私もいい経験をさせていただきました。
そして、私が監督になった年の最初のオープン戦で熊本に行った時に、監督は倒れられたんです。
それから、監督としてご指導を、というんですけれども、お体の調子があんまり良くなくて、なかなかお話することができませんでした。
でも、2年間という短い期間でしたが、お前のやりたいようにやりなさいよっていう言葉をかけていただいて、リハビリで苦しい中でも、人のことまでお気遣いをいただく長嶋さんの凄さ、私は60年間の野球の中で、長嶋さんのいなかった時期は全くないに等しいと。
いつどこへ行っても長嶋さんの話が出る。
私も、少し落ち着いたら、長嶋さんがどういう人だったか、書き残してもいいんじゃないかなと自分なりに思います。
外には出しません。
いろいろ苦労されました。
20年も経って、お体が調子が戻らなかった。
でも、私も長嶋さんのリハビリの姿を見ていて、感動いたしましたし、もう少しもう少しと思いましたけれども、それも叶わぬ夢になりました。
「巨人軍は永久に不滅です」と長嶋さんはおっしゃいました。
長嶋茂雄という名前も不滅です。
ありがとうございました。
【全文】長嶋三奈さんあいさつ
長嶋さんの通夜で喪主を務めた次女の三奈さんのあいさつです。
ともにV9を果たした王貞治さんや教え子の松井秀喜さんとのエピソードや華やかな祭壇に込めた思いを語りました。
本日はお忙しいところ、また遠路にも関わらず、父・長嶋茂雄の通夜にお越しくださいまして誠にありがとうございました。
祭壇の父の写真をよく見てください。
家族と過ごす時は、父は本当に太陽のように大きくて明るくて暖かい日差しを私たち家族に毎日降り注いでくれました。
よく会社、仕事場に行きますと、「監督って試合に負けると、機嫌が悪いの?」といろんな方に聞かれました。
父はどんな試合になっても機嫌が悪かったり、何か物に当たったり、怒ったり、そんなような姿は、私は一度も見たことはありません。
ただ、私がこんなことを言いますと、選手の皆様の中には、「いやいや試合中、僕は、ベンチでずっと監督から蹴られたぞ」とそんなことを思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、父はグラウンドでは真剣なあまり雷や嵐が吹き荒れたかもしれませんが、そのおかげで、長嶋家は毎日青空で父が太陽のように笑顔をたくさん振りまいてくれました。
そして、6月3日、朝6時39分に父は長い眠りにつきました。
そのわずか7時間後に一番に駆けつけてくださったのが王貞治会長です。
会長、本当にありがとうございました。
父は、王会長が巨人軍に入団されて初めて会った日のことを60年過ぎた今も鮮明に覚えているんです。
上野駅で学生服を着た王会長が前から歩いてきた時のことについては、「なんて体が大きいんだ。目もクリクリ大きくて、すごく立派な体をしているな」と。
会長の話になると、本当にずっと笑顔で話が止まりません。
私が以前、「王さんとパパはライバルだったの?」と聞いたことがあります。
父は真っ先に「三奈ちゃん違うよ。王さんとパパはね、二人で一緒に巨人を強くしていこう。二人で一緒に日本一のチームを作るんだって、ずっと一緒に同じことを考えて頑張ってきたんだよ。パパが打てなかった時は、王さんが打ったし、王さんが打てない時があったらよし、今日は俺が打つぞ、そういう気持ちになるんだ」ともうずっと父は笑顔で会長の話をしていました。
不思議なんですが、父が王会長の話をするときは、もうずっと笑顔なんですが、目に涙が浮かんでいるんです。
涙ぐみながら笑顔で思い出話をする。
そんな方は父にとっては王会長だけでした。
本当に最後まで父に付き添っていただきましてありがとうございました。
そして6月4日早朝には、ニューヨークから松井秀喜さんが駆けつけてくださいました。
松井さん本当にどうもありがとうございました。
ご存知の通り、父は松井さんが世界で一番好きな方です。
もし、松井さんと私が同時で海に溺れたら、父は私じゃなくて真っ先に松井さんを助けに行くだろうなと、本気で私は考えたこともあります。
松井さんがヤンキースに入団された1年目の2003年、もう父はいても立ってもいられず、ニューヨークに駆けつけました。
そして、ニューヨークのプラザホテルというとても格式高いホテルのスイートルームから「松井、バットを持って今すぐ来い」と、すぐに電話をしたそうです。
松井さんはびっくりされて、「今からですか?」とバットのケースにしまわずに、もうそのまま裸のまま、小脇に抱えて隠すように、プラザホテルのロビーを歩いて行ったんですよ。
私、その話は何度聞いても顔がほころんでしまいます。
その後は、父と松井さん二人だけで、無言で松井さんの素振りの音だけが部屋に響いていたと後で聞きました。
そして、松井さんが38歳で現役を引退された時に、その新聞記事を、父が私に見せながら、「パパもね、引退したの38歳なんだよ、松井と一緒なんだよ」と、ちょっと寂しそうな、でも誇らしげな顔をしていたのを私は今でも覚えています。
言っていいのか、わからないんですが、実は松井さんと私でちょっとある約束をしていたことがありました。
それは、松井さんが次の巨人の監督になられるかのような雰囲気を父に醸し出しておけば、父は毎年そのことを楽しみにリハビリをもっともっと頑張るので、松井さんどうか父が100歳になるまで言い続けてください。
もう題して「『監督やるやる詐欺』しましょう」と、ずっと松井さんと話していました。
今ちょっとここで話してしまったので、多分父も聞いているかと思います。
父は本当に耳もいいですし、記憶力もいいんですが、なぜか選手の皆様のお名前はよく間違えておりました。
上原浩治さんに、上原さんいらっしゃると思うんですが、上原浩治さんにお会いしたときには、「監督、僕のことをずっと二岡って呼ぶんですよ」って。
すみませんって言いながら、また、ある時は桑田真澄さんにお会いしたときは、「監督、僕のことを最後までクワダって言っていました」。
娘としてはちょっと恥ずかしかったんですが、もう父の話が出ると、もう周りの方が皆さん、一瞬にして笑顔の花がぱっと咲いて、父ってどこにいてもいろんな方を笑顔にするんだな、もう野球と関係ないのに笑顔で包んでくれるんだなと、ちょっと恥ずかしながらも娘としては誇りに思っておりました。
そんな父ですので、皆さん、どうかこれからも笑顔で笑い声をあげながら、父のことを話していただければなと思います。
最後になりますが私からのお願いです。
実は、父の祭壇をどのようにするか打ち合わせをした時に、本来でしたらグレーだったり、落ち着いた印象にするんですが、私はどうしても父の大好きなジャイアンツカラー、オレンジにしたくて、どうかオレンジの花で、父を囲ってくださいと言って、このような素晴らしい明るい祭壇を作っていただきました。
そして、巨人軍の提供で、父が大好きな背番号3のユニホームそして隣には、天覧試合でホームランを打った時に使用したバット、そして、松井秀喜さんと一緒に授与していただきました国民栄誉賞の金のバット、そして、こちらには天皇陛下から直々に授与されました勲記と文化勲章を飾らせていただきました。
この祭壇には、長嶋茂雄の誇りが詰まっております。
皆様、もしお時間がございましたら、帰りがけにお持ちの携帯でいいので、ぜひ父の誇りやこの祭壇、父と一緒に最後の記念写真を取ってあげてください。
その時はどうか涙は見せずに、笑顔で思いっきり父に笑って話しかけてあげてください。
そして、その写真は皆様の心の中にずっと留めておいていただけますと、大変ありがたく存じます。
本日は誠にありがとうございました。